暁風との夜
夜。
麗華は一人で執務室に残っていた。灯火が揺れる中、条件リストを睨みつけている。墨字の列が灯火の光で影を落とし、紙の上で微かに揺れていた。机の上には冷めた茶杯が一つ。茶殻が杯の底に沈み、茶色い滓が円を描いている。
扉が叩かれた。
「入るぞ」
暁風だった。手に茶碗を二つ持っている。両手で一つずつ、大きな掌に茶碗が小さく見える。将軍の手が茶碗を持つ姿は、いつ見ても不思議な取り合わせだ。剣を振り、弓を引く手が、今は陶器を支えている。指の付け根に剣だこの硬い膨らみがあり、その武骨な手が薄い陶器を割らぬよう、妙に慎重に持っていた。
「まだ起きていたのか」
「考え事をしていました」
「知っている。——茶を淹れた」
暁風が茶碗を一つ、麗華の前に置いた。ぎこちない動作。茶の淹れ方を覚えたのは鳳凰領に来てからだ。以前は軍の糧食と水しか知らなかった男が、今は茶を淹れて持ってくる。
茶碗から湯気が立ちのぼっている。鳳凰領の山茶だ。茶葉の量が少し多い。暁風が淹れる茶は、いつも少し濃い。蒸らし時間が長すぎるのか、茶葉を多く入れすぎるのか。おそらく両方だ。春蘭が何度教えても、暁風の指は茶葉を少なく摘むことを覚えない。湯気の向こうに暁風の顔が揺れて見えた。無表情だが、目の奥に気遣いの色がある。
麗華は茶碗を受け取り、一口啜った。
渋い。やはり渋い。だが温かい。舌の上で苦みが広がり、その奥に茶葉本来の甘みがかすかに残っている。暁風の淹れる茶は完璧からは程遠い。だが——喉を通る温もりは本物だ。冷えた体の芯に、温かさが沁みていく。夜更けの執務室で、この温もりがどれほどありがたいか。暁風には分かっているのだろう。だから淹れてくる。不器用でも。
「暁風殿。——少し、聞いてもらえますか」
「聞く」
暁風が向かいの椅子に座った。大きな体が古い椅子に沈み、木が軋む音がした。椅子の脚が床板に擦れ、ぎし、と低い音を立てる。
「朝廷との協力が必要だと——頭では分かっています。論理的に、朝廷の資源なしには霊脈再生は不可能。それは明白です」
「ああ」
「でも——感情が追いつかない」
麗華は茶碗を両手で包んだ。陶器を通じて、温もりが掌に伝わる。指先が冷えていたことに、今さら気づいた。一日中帳面を捲り、筆を握り続けた指は、血の巡りが悪くなっていたのだ。茶碗の温もりが、少しずつ指先に戻っていく。
「三年前、あの後宮で廃妃を宣告されたとき。帝都を出る時に『帝都の食卓が寂しくなりませんよう』と言ったとき。あの時から——ずっと、朝廷は敵だった。自分を切り捨てた場所。二度と頭を下げない場所。そう決めて、食糧で戦ってきた」
「ああ」
「その場所に——助けを求めに行く。論理は明白なのに、心が動かない。情けないわね」
「情けなくはない」
暁風が言った。即座に。考える間もなく。言葉が口から出る前に、体が反応したような速さだった。声に力がこもっている。武人の声だ。戦場で号令を発するときの、有無を言わせぬ響き。だがその声量は抑えられていて、二人きりの夜の部屋にちょうど収まる大きさだった。
「当たり前だろう。あんたを廃妃にした場所に頭を下げるなんて、普通は嫌に決まっている。論理で感情が動くなら、誰も苦労しない」
「……それもそうね」
「だが——一つ聞いていいか」
「何?」
「あんたが朝廷に頭を下げるのは、あんた自身のためか。それとも——」
「領民のため。鳳凰領の民のため。瑛朝の民のため」
「ならば——頭を下げることは屈辱じゃない。あんたが守りたいもののために、できることをする。それだけだ」
暁風の言葉は、いつも簡潔だった。飾りがない。修辞がない。だがその簡潔さが——核心を射る。武人の剣のように、一振りで的を貫く。麗華が三年間、後宮仕込みの知略で築いてきた理屈の壁を、暁風の一言が素通りしていく。理屈では動かせなかった何かが、今の一言で微かに揺れた。
麗華は茶を啜った。渋い。でも温かい。
二口目を飲むと、渋みの奥にある甘みが少し分かるようになった。完璧ではない茶だが、二口目からは悪くない。暁風の茶は——二口目からが本番なのかもしれない。人柄と同じだ。最初は武骨で取っつきにくいが、付き合うほどに誠実さの味わいが出てくる。渋みの奥に隠れた甘みに気づいたとき、この男の本当の温かさを知るのだ。
「……助けが必要かもしれない」
ぽつりと、麗華は言った。
暁風の目がわずかに動いた。墨色の瞳が、灯火の光を受けて微かに揺れた。
「今——何と言った」
「助けが必要かもしれない、と言いました。——初めて言う言葉ね」
三年間、一度も口にしなかった言葉だ。食糧で帝国を揺るがし、外交を操り、謀略を張り巡らせてきた女が。全てを一人の頭で計算し、一人の手で実行してきた女が。今夜初めて——「助けが必要」と口にした。
暁風が——微笑んだ。
暁風が微笑むのは珍しいことだ。無表情が常で、笑っても口元がわずかに緩む程度。だが今夜の微笑みは——目元にまで及んでいた。眉の角度が柔らかくなり、目尻に皺が寄り、無骨な将軍の顔が別人のように穏やかになった。灯火の光がその顔を照らし、頬の陰影が温かく揺れている。
「あんたがそう言えるようになったこと自体が、大きな一歩だ」
麗華は不意を突かれたように暁風を見た。
灯火に照らされた暁風の顔は——穏やかだった。無骨な将軍の顔が、こんなにも穏やかになれるのかと、麗華は不思議に思った。この男の微笑みを、もっと早くに知っていたなら——何かが違っていたかもしれない。
「……ありがとう」
「礼を言うな。茶を淹れただけだ」
「茶だけじゃないわよ」
暁風が目を逸らした。耳が赤い。灯火の明かりでも分かるほど、はっきりと赤い。感情が耳に出る男。首筋まで赤みが差しているのを、麗華は目の端で捉えた。
二人で静かに茶を飲んだ。
暁風の淹れた、少し渋い茶。質素だが温かい。三口目にはもう、渋みが気にならなくなっていた。むしろ渋みの後に来る甘みが、心地よく感じられる。杯の底が見えかける頃には、舌の上に穏やかな余韻だけが残っていた。
窓の外は暗い。星も見えない曇り空だ。だが執務室の灯火は温かく、二人の間の沈黙は——苦しくなかった。むしろ心地よかった。言葉がなくても通じるものがある沈黙。茶碗を持つ手の温もりと、灯火の揺らめきと、相手の呼吸の音だけで満たされた時間。
どこかで虫が鳴いた。鈴虫の細い声が、窓の外から忍び込んできた。
麗華は茶碗を置き、呟いた。
「……決めます。明日にでも」
「ああ。——俺がいる」
その一言が、夜の執務室に静かに響いた。
灯火がふっと揺れて、二人の影が壁の上で一瞬重なった。




