もう一つの術
老太爺が、最後の手がかりを語った。
朝から空気が張り詰めていた。昨夜のうちに春蘭が老太爺の居室を整え、灯台の油を足し、薬湯を新しく煎じ直した。朝の光が障子越しに差し込み、部屋全体を柔らかく照らしている。だがその柔らかさとは裏腹に、居室に集まった四人の表情はどれも硬かった。
寝台の上で半身を起こし、枕を背に当て、麗華と翠微に向き合った。暁風は部屋の隅に立ち、静かに聞いている。春蘭が筆記の準備を整え、帳面を膝の上に広げていた。墨を磨る音が小さく響き、それが合図のように部屋の空気を引き締めた。
老太爺の居室には薬湯の匂いが漂い、窓からの夕陽が寝台の白い布を朱色に染めていた。老太爺の手は布団の上に出されている。かつて土に触れるたびに淡い緑色に光った指先が、今は血の気が薄く、青白い。
「麗華。翠微。わしが知っていることの中で——まだ伝えていないことがある」
「何ですか、祖父様」
「地養術には……三つの力がある」
老太爺の声は弱いが、言葉は明瞭だった。五十年間——いや、生涯をかけて蓄えた知識が、最後の力で紡ぎ出されている。
「一つ目は『育てる力』。霊脈の力を土に注ぎ、穀物を育てる。お前も翠微も、これは習得しておる」
「はい」
「二つ目は『治す力』。断裂した霊脈を——再びつなぎ直す力じゃ」
翠微が息を呑んだ。自分が荒地で感じた——眠った霊脈に「話しかけた」感覚。あれは「治す力」の萌芽だったのか。指先が翡翠色に光ったあの瞬間が、脳裏に蘇った。
「翠微。お前の中にあるのは——この二つ目の力じゃ。麗華にもわしにもない力。壊れたものを治す力。お前の指先が麗華とは違う色に光るのは、そのためじゃ」
「あたしの——」
翠微が自分の手のひらを見下ろした。荒地の土で汚れた指。農家の娘の手。その手に、師にも祖師にもない力が宿っている。
「三つ目は『繋ぐ力』。育てるでも治すでもない。大地の霊脈ネットワーク全体を——一つに繋ぎ、調和させる力じゃ。百年前に断裂した霊脈を完全に再生するには、この三つ目の力が要る」
「祖父様。三つ目の力は——誰が使えるのですか」
「一人では使えぬ。育てる力と治す力の両方を持つ者が協力し、さらに霊脈の全体図を把握した上で——初めて可能になる」
老太爺が咳き込んだ。胸の奥から絞り出すような、乾いた咳。春蘭が水を持ってきて、老太爺の唇を湿らせた。水滴が白い髭を伝い、衿元に落ちた。
「詳細は……わしの知る限りでは不完全じゃ。百年前の先代が行った術式の全容は、朝廷の古文書——玄天閣の蔵書に記録されておるはず。鳳家の伝書だけでは足りぬ」
「朝廷の古文書」
「うむ。鳳家の秘伝と、朝廷の古文書。この二つを合わせれば——霊脈を再生する術の全容が見える。じゃが片方だけでは——」
老太爺の声がかすれた。言葉の間に息継ぎが入り、一文を紡ぐのに以前の倍の時間がかかっている。
「止める方法は……ある。ただし、わし一人では——いや、お前一人では使えぬ。翠微の力も要る。朝廷の知識も要る。——全てが揃って初めて」
「祖父様。大丈夫です。休んでください」
「ああ……すまん。少し、疲れた」
老太爺が目を閉じ、寝台に横たわった。呼吸が浅くなり、枕の上で白髪が乱れたまま広がった。
麗華と翠微が部屋を出ると、暁風が廊下で待っていた。
三人は庭に面した回廊で、しばし黙って立っていた。
夕暮れの風が回廊を渡る。鳳凰領の田が夕陽に染まっている。黄金色の稲穂が朱に輝き、用水路の水面が空の赤を映していた。遠くの南の空だけが、灰色に沈んでいる。
暁風が口を開いた。
「何があっても、俺は味方だ」
唐突だった。だが暁風にとっては——ここまでの全てを聞いた上での、率直な結論だった。政治も術式も、暁風には難しい。だが一つだけ、確かなことがある。
「鳳家の罪だの蘇家の陰謀だの、そういう話は俺には難しい。だが一つだけ分かることがある。——あんたがやろうとしていることは、正しい」
麗華は暁風を見上げた。夕陽を背にした暁風の顔は半分影になっているが、目だけが真っ直ぐにこちらを見ていた。
「暁風殿」
「壊れたものを直す。飢える民を救う。それが正しくないなら、何が正しいんだ」
暁風の目は嘘がつけない目だ。墨色の瞳に、夕焼けの朱が揺れている。
麗華は——手を伸ばした。
暁風の手に、自分の手を重ねた。
初めてのことだった。
暁風が固まった。目が見開かれ、耳が真っ赤になった。大きな手のひらの上に置かれた麗華の手は細く白く、暁風の手の半分ほどしかない。だが——暁風は手を引っ込めなかった。
「……あなたがいてくれて、よかった」
麗華の声は、かすかに震えていた。感情を制御する力が、一瞬だけ緩んだのだ。後宮仕込みの鎧の隙間から、本音がこぼれ落ちた。
暁風は何も言えなかった。言葉を探して口が動いたが、音にならなかった。代わりに——麗華の手を、握り返した。
不器用に。ぎこちなく。力加減が分からないのか、最初は弱く、次に少し強く、それから慌てたように力を緩めた。だが確かに——握り返した。
夕陽が二人の影を長く伸ばしていた。回廊の柱の影と重なり、庭の石畳の上に伸びていく。
「止める方法は、ある。ただし——私一人では使えない」
麗華は暁風の手を握ったまま、呟いた。
翠微の力。朝廷の古文書。そして——暁風の存在。
一人では歩けない道を——共に歩く覚悟が、ここから始まる。
暁風の手は温かかった。武骨で、硬くて、けれど温かい。剣の柄を握り続けてきた掌には硬い胼胝があり、指先は荒れている。だがその荒れた手から伝わる温もりは、どんな絹の手触りよりも確かだった。
夕闇が深くなっていく。回廊の柱の影が庭に伸び、鳳凰領の田の上を夜の色が覆い始めていた。空の端には宵の明星が一つ、白く輝いている。
その温もりが、夕闇に沈みゆく鳳凰領の回廊で、麗華の指先に確かに伝わっていた。
翠微が回廊の向こうから、二人を見つめていた。見つめてから——そっと、足音を殺して引き返した。三つ編みが揺れる背中が、夕闇の中に消えていった。




