百年の周期
麗華は老太爺の知識と翠微の調査データを照合する作業に入った。
執務室の机に翠微の報告書と老太爺の伝書を並べ、春蘭が用意した灯台の光の下で、一つずつ突き合わせていく。窓の外には鳳凰領の昼下がりの光が溢れているが、麗華の目は手元の紙にしか向いていなかった。集中しているときの麗華は、周囲の音が聞こえなくなる。暁風が茶を置いても気づかず、翠微が声をかけても二度目でようやく反応する。
老太爺はまだ寝台の上だが、意識は明瞭だった。麗華が質問すれば、声は弱いが的確に答えてくれる。枕元には春蘭が煎じた薬湯と、半分残った粥の椀が並んでいた。
「祖父様。百年前の霊脈震の後——次の周期について、何かご存じですか」
「周期——か」
老太爺は天井を見つめた。梁に張られた蜘蛛の巣が、窓からの微風に揺れている。老太爺の視線はそれを見ているようで、見ていない。遠い記憶の底を探っている目だった。
「父が言うておった。百年前の術が失敗したとき、霊脈に大きな歪みが残ったと。その歪みが——百年かけて蓄積し、やがてもう一度震動する。自然の周期とは別の——人為的な歪みによる震動じゃ」
「人為的な歪みの周期」
「うむ。父の計算では——百年。あるいはそれより短い。霊脈の断裂が大きいほど、歪みの蓄積は早い」
老太爺が咳き込んだ。乾いた、痛々しい咳だった。胸の奥から引きずり出されるような音が、静かな部屋に響く。春蘭がすかさず薬湯を差し出し、老太爺が一口含んだ。甘草の甘みと当帰の苦みが入り混じった液体が、細い喉を通っていく。一口ごとに喉仏がゆっくりと上下するのが見えた。
麗華は翠微のデータを広げた。
翠微が測定した霊脈の残存エネルギー。侵食速度の推移。鳳凰領各地の霊脈脈動の記録。翠微の報告書は数字の部分が頼りなかったが、霊脈の「声」を音や振動として記述した箇所には、麗華にも感じ取れない情報が含まれていた。
老太爺の知識と翠微のデータを突き合わせると——一つの結論が浮かび上がった。
「祖父様。翠微のデータでは、霊脈の残存エネルギーが指数関数的に減少しています。この減少曲線を百年前の術の理論モデルに当てはめると——」
「……次の震動は」
「数年以内です。もしかしたら——二年以内」
老太爺の顔が、蒼白になった。枕に半分沈んだ頭が微かに揺れた。
「……そんなに早いか」
老太爺の枯れた手が布団を握りしめた。節くれ立った指が白くなるほど力が込められている。百年前の過ちの報いが、こんなにも早く、こんなにも容赦なく迫ってくるとは——五十年間秘密を守り続けた老人でさえ、想定していなかったのだ。
「翠微のデータは一貫しています。南部の荒地化の加速も、この理論モデルと整合する。百年前の歪みが蓄積の限界に達しつつあるのです」
次の霊脈震が起きれば——鳳凰領の霊脈も完全に断裂する。鳳凰領だけでなく、瑛朝の全土が不可逆の荒地化に至る。
不可逆。
その二文字が、執務室の空気を凍りつかせた。
翠微が言った「眠っている」霊脈も、次の震動で完全に死ぬ。二度と目覚めない。まだ息をしている大地が、永遠に沈黙する。
「祖父様。百年周期の話を、以前してくださいましたね」
「ああ。『百年ごとに霊脈が揺れる。前回は百年前——次がいつかは、誰にも分からん』——そう言ったのう」
「今、分かりました。次は——数年以内です」
老太爺は目を閉じた。皺だらけの瞼が微かに震えている。
「……間に合うかのう」
「間に合わせます」
麗華の声には、迷いがなかった。声に力が込められている。七日間の苦悩を越えた後の声だ。柔らかさと硬さが同居する、鳳麗華という女の声。
暁風と翠微を呼んだ。春蘭も加わり、四人が執務室に集まった。
夕刻の執務室に、四つの影が落ちている。窓から差す夕陽が、机の上に広げられた地図と報告書を朱に染めていた。
麗華は全員を見渡した。
「猶予はない。方法を見つけなければ——この国が滅ぶ」
暁風が腕を組んだ。翠微が唇を結んだ。春蘭が帳面を開いた。
四人の目に、同じ決意が宿っていた。窓の外では夕焼けが鳳凰領の田を赤く染め、その向こうの灰色を暗く沈めている。
「まず——老太爺から地養術の最深部を聞き出す必要がある。祖父様の体力が持つうちに。そして趙文昌の文書に記された逆手順の詳細を——朝廷の古文書庫から入手する必要がある」
「朝廷、か」
暁風が呟いた。低い声。だが咎める響きはない。
「ええ。朝廷の協力が——必要になるかもしれない」
その言葉の重さを、四人全員が理解していた。
麗華にとって朝廷は、自分を廃妃にした場所だ。食糧戦略で揺さぶり、弾劾に追い込んだ相手だ。三年間、一度も頭を下げなかった相手。
その朝廷に——助けを求めることになるかもしれない。
だが今は、その先のことを考える余裕はない。
まず、時間との戦いだ。
麗華は地図の上に指を置いた。灰色と黄金の境界線の上に、細い指が静かに伏せられた。
「二年。もしかしたらそれより短い。その間に——全てを揃える」
暁風が腕を解いて、窓辺に歩み寄った。夕焼けの光が将軍の横顔を照らしている。
「夕餉の支度はある。春蘭が、干し肉と蕪の煮物を用意していた。——食べろ。話はそれからだ」
麗華は暁風を見た。
(この男はいつも、まず食事の話をする。難題の前でも、危機の前でも、まず「食べろ」と言う。それが暁風なりの優しさの形だ)
「……そうね。食べましょう。四人で。——明日からの戦のために」
翠微が報告書を片付けながら、ぱっと顔を明るくした。
「春蘭姐さんの煮物、楽しみです。あたし、干し肉が大好きで」
「翠微。お前は大体なんでも大好きだろう」
「暁風さんに言われたくないです。先生の料理の前だと全部『旨い』しか言えない人に」
暁風が口をつぐんだ。反論できないらしい。
四人の影が夕陽の中で重なった。灰色と黄金の境界に立つ四つの影が、夕闇に長く伸びていた。




