加速する荒地化
麗華が立ち直ったのと時を同じくして、荒地化はさらに進行していた。
翠微の調査報告が執務室の机に積み上がっていた。七日間の空白の間も、翠微は一人で調査を続けていたのだ。報告書の紙は端が土で汚れ、何枚かは雨に濡れた跡があった。天候に関係なく、毎日荒地に出ていた証だ。紙の角が折れ曲がり、綴じ紐が解けかけているものもあった。一人で荒地を歩き回った日々の痕跡が、書類の一枚一枚に刻まれていた。
「先生。——お帰りなさい」
翠微が報告書を手に、執務室に入ってきた。「お帰りなさい」という言葉は、旅から戻った人にかけるものだ。だが翠微にとっては——七日間の苦悩から戻ってきた師を迎える言葉として、これが一番自然だった。
翠微の目の下に隈がある。頬がこけ、日焼けがさらに濃くなっていた。七日間、一人で調査を続けた疲労が顔に出ている。だが瞳は明るかった。師が戻ってきた安堵が、疲労を上回っている。三つ編みが少し乱れているのは、駆けてきたからだろう。
「ただいま、翠微。——報告を聞かせて」
「はい。南部穀倉地帯の荒地化は、この一週間で被害面積が倍以上に広がりました。侵食の速度は加速しています」
翠微が広げた地図に、灰色の印が書き込まれていた。南端から始まった荒地化が、北に向かって扇状に広がっている。灰色の印は日付入りで記されており、日を追うごとに塗りつぶされる範囲が大きくなっている。七日間の推移が一目で分かる、丁寧な記録だった。印の横には、翠微独特の感覚的な注記が添えられている。「この辺り、土が冷たくなった」「ここは昨日まで温かかったのに」——数字では表せない、翠微だけが感じ取れる大地の変化が書き込まれていた。
「先生。侵食の方向を追跡しました。南端から始まって、鳳凰領の中心部に向かって進んでいます」
「中心部に」
「はい。このまま行けば——中心部の大穀倉地帯に到達するのは、あと数ヶ月です」
中心部の大穀倉地帯。鳳凰領の食糧生産の核だ。稲と小麦が交互に植えられ、二期作で年間を通して穀物を産出する、瑛朝最大の穀倉地帯。そこが荒地化すれば、鳳凰領の食糧生産能力は壊滅的な打撃を受ける。鳳凰領だけではない。瑛朝全土の食糧供給が崩壊する。
「侵食速度の加速は——霊脈の衰弱が原因だと考えられます。地養術で維持していた霊脈の力が弱まるにつれて、荒地化の侵食速度が上がっている。つまり——」
「一度始まると、加速度的に進む」
「はい」
麗華は地図を見つめた。灰色の印が、鳳凰領の心臓に向かって伸びている。まるで灰色の手が、黄金色の大地を掴もうとしているかのようだった。翠微の細い筆で書かれた日付と注記が、侵食の速度を残酷なほど正確に示していた。
窓の外では、まだ中部の田が青々と広がっている。用水路の水音が聞こえ、早朝に出た農夫の声が遠くから響いている。稲の葉が風に揺れ、さわさわと擦れ合う音が聞こえた。だがこの穏やかな光景の南の果てに、灰色が忍び寄っている。
「翠微。このまま行けば——鳳凰領の全土が荒地化するまで、どのくらい」
「あたしの計算では——このままの速度が続くなら、三年から五年。ただし加速が続くなら——」
翠微が言い淀んだ。報告書を握る指が白くなっている。爪の間に残った灰色の土が、荒地の最前線を歩いた証だ。
「言って」
「……二年。もしかしたら、もっと早いかもしれません」
沈黙が落ちた。執務室の空気が重くなる。窓から入る風が、翠微の報告書の端をかさりと鳴らした。遠くで鶏が鳴く声が聞こえた。鳳凰領の日常の音だ。その日常が、二年後にはなくなるかもしれないという事実が、沈黙の中で鋭く響いた。
「このままでは……あと数年で鳳凰領の全土が」
麗華は呟いた。
鳳凰領が完全に荒地化すれば、瑛朝は食糧生産の最後の拠点を失う。国の食糧の七割を担う土地がなくなれば——飢餓が国を滅ぼす。麗華が三年間かけて構築した食糧戦略の前提そのものが、根底から崩れる。食糧を武器にするも何も、その食糧そのものが消える。
「先生」
「……ええ。分かっているわ」
麗華は地図から目を上げた。翠微の目を見た。疲労と不安、そしてその奥にある——希望への執念。この少女は七日間、師がいない間も一人で荒地を歩き、報告書を書き、データを集め続けた。絶望していたなら、こんな丁寧な報告書は書けない。
「時間がない。急がないと」
七日間の苦悩で失った時間が惜しい——とは言わない。あの七日間は必要だった。真相を知り、苦しみ、受け入れ、立ち上がるために必要な時間だった。
だがここからは——時間との戦いだ。
翠微が報告書を卓に並べた。侵食速度のデータ、霊脈の残存量の推定値、土壌の成分分析。翠微が一人で、七日間かけて集めた情報だ。紙の端に土がこびりつき、何枚かは汗で滲んでいる。一人で荒地を歩き回り、膝をついて土に触れ、霊脈の声を聴き続けた少女の七日間が、この報告書に詰まっていた。
「ありがとう、翠微。あなたがいてくれて、助かった」
翠微の目が少し潤んだ。だがすぐに引き締め、頷いた。唇をきゅっと結んで、師の顔を真っ直ぐに見た。
「あたしは先生の弟子ですから」
麗華は微笑んだ。今度は——本物の微笑みだった。
窓の外で、風が黄金色の田を渡っていく。稲穂が波のようにうねり、遠くの山際に夏の入道雲が白く盛り上がっている。その向こうに灰色が迫っている。生きている大地の緑と、死にかけている大地の灰と。その境界線が、日に日にこちらに近づいている。
時間はない。だが——希望はまだ、ある。
麗華は翠微の報告書を手に取り、最初のページを開いた。
翠微の字は、三年前に比べて格段に読みやすくなっていた。最初の頃は鏡文字があったし、数字の桁を間違えることも多かった。春蘭に赤字で直された跡が、初期の報告書には所狭しと並んでいたものだ。今は——まだ不格好な字ではあるが、正確に、誤りなく書かれている。農家の娘が、三年間で身につけた力の証がこの字にある。
執務室に昼餉の鐘が聞こえた。翠微が「お昼、一緒に食べましょう」と言った。
「何がある?」
「春蘭姐さんが雑穀の粥を作ってくれてます。干し魚もあります」
「行きましょう」
ここから先は——師弟で戦う。だがまず、食べる。食べることは、戦い続けるための最初の一歩だ。




