文書の最後のピース
三つ目の証拠——趙文昌の押収文書に、麗華はもう一度向き合った。
前回読んだ際には部分的にしか解読していなかった。だが今、老太爺の告白と北の伝承を踏まえて読み直すと、見落としていた記述が浮かび上がってきた。文字を読む目の精度が変わっている。背景知識が増えれば、同じ文書から引き出せる情報量も変わる。後宮の三年間で嫌というほど学んだことだ。
春蘭を呼んだ。
「この文書の裏面。以前、走り書きを見つけたわね」
「はい。『鳳凰の根を掘れば、百年の嘘が剥がれる』——あの書き込みですね」
「それだけじゃない。文書の余白に——もう一つ書き込みがあるわ。灯火で透かさないと見えないほど薄い墨だけれど」
春蘭が灯火を近づけた。灯心の炎が紙に近い。火傷しないよう、春蘭の手は慎重だ。紙の繊維が灯火の光を透かし、表面に浮かび上がったのは、細い筆跡の走り書き。趙文昌の字だろう。癖のある筆致で、急いで書いたことが見て取れた。
「……『操作の逆手順あり。玄天閣の五番庫に』」
麗華の指が止まった。
(逆手順。霊脈操作を——逆転させる手順。つまり、百年前に断裂した霊脈を、元に戻す方法が存在する)
「お嬢様?」
「春蘭。この文書を書き写したのは趙文昌だけれど、原本は朝廷の古文書庫にあったもの。趙文昌はこの『逆手順』の存在に気づいて——玄天閣の場所まで特定していた」
「つまり——趙文昌は百年前の霊脈操作を元に戻す方法があることを知っていた」
「知っていて、隠した。あるいは——まだ利用する機会を窺っていた」
麗華は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。趙文昌。あの老獪な宰相は、食糧問題を軽視していたわけではなかったのかもしれない。軽視していたのではなく、情報を独占していた。百年前の真相を知り、解決法があることも知り、それを権力維持の道具にしようとしていた。
麗華は文書を机に広げ、記述の全体を精読した。
技術的な記述。霊脈ネットワークの構造。力の流れを変える術式。集中と分散の理論。文書の言葉は古風で、術式の専門用語が多い。だが麗華は地養術の継承者だ。祖父から学んだ知識を総動員すれば、記述の大意は読み解ける。
そして——最後の一節。
「大規模霊脈操作は不可逆にあらず。操作を逆転させるには、操作時と同等の術者数、操作時に使用した霊脈図の完全版、および操作の具体的手順の記録が必要」
三つの条件。
同等の術者数。霊脈図の完全版。操作手順の記録。
(この文書は——百年前の操作を逆転させれば、荒地化を止められると言っている。ただし条件が三つ。複数の術者。霊脈図。操作手順。——どれも今の私の手元にはない)
だが、この文書が最後のピースだった。
老太爺の告白で、百年前の操作の概要が分かった。北の伝承で、外部からの証拠が得られた。そしてこの文書で、操作の技術的基盤と逆転の可能性が示された。
三つの情報源が——完全に合致した。
霊脈震は人災だった。そして——元に戻す方法は、存在する。
「春蘭」
「はい」
「この情報を暁風殿と翠微に共有します。四人だけの極秘事項として」
「承知しました。場所は?」
「執務室。窓を閉めて。盗み聞きの対策も」
春蘭が頷き、準備に向かった。春蘭は情報管理のプロだ。後宮時代、麗華の密談の場を何度も準備してきた。盗聴を防ぐ方法を知り、文書の管理方法を心得ている。
麗華は文書を封じ直しながら、最後の一行に目をやった。
趙文昌の走り書き。薄い墨で記された「玄天閣の五番庫」。
(朝廷の古文書庫に——霊脈再生の手がかりがある。趙文昌はそれを知っていて、自分の利益のために隠していた。百年前の真相も、解決の方法も——全て権力者の思惑で隠されてきた。祖父の秘密も。蘇家の隠蔽も。趙文昌の情報独占も。重ねた嘘の層が、百年分の厚さで真実を覆い隠してきた)
文書の最後の一行が、全てを確定させた。
霊脈震は、止められたはずの災害だった。
百年前にも。そして——今も。
止める方法がある。ただし、それには麗華一人の力では到底足りない。条件の全てが——麗華の手の外にある。
窓の外で、風が鳳凰領の田を渡っていった。黄金色と灰色の境界線が、日に日に北に迫っている。南部穀倉地帯はもう、半分以上が灰色に沈んでいた。
(止められる。方法はある。——ただし、全てが揃えば)
全てが揃う保証はない。だが方法が存在することが分かった。それだけでも——昨日までとは違う。
麗華の目に、冷たい決意が宿った。
昼餉の時刻だったが、食事は後回しにした。まず春蘭に会わなければ。暁風と翠微にも伝えなければ。時間は限られている。荒地化は待ってくれない。
書庫を出る足取りは、入ったときよりも速かった。
廊下で翠微とすれ違った。翠微は荒地の調査から戻ったところらしく、裾に灰色の土がついていた。
「先生。今日も境界線の調査をしてきました。荒地化の速度が——」
「翠微。午後、執務室に来て。春蘭と暁風殿も一緒に。大事な話がある」
翠微の目が丸くなった。麗華の表情が、いつもと違うことを察したのだろう。
「……はい。分かりました」
「その前に、昼食を食べなさい。体力は大事よ」
「先生こそ、食べてください」
「……食べるわ」
翠微と別れた後、麗華は厨房に立ち寄った。棚から白飯を一膳よそい、漬物を添えた。昨日は残した漬物を、今日は——食べた。胡瓜の歯触りと塩の辛みが、口の中で鋭い味を立てた。
おいしい、とは思わなかった。だが食べた。食べなければ戦えない。
鳳凰領の穀物で育った漬物。百年前の過ちの上に成り立つ食卓。
だがその食卓が、今も民を生かしている。それもまた事実だ。
加害者の末裔の食卓であると同時に、百年間人々を養ってきた食卓でもある。
どちらの事実も消せない。消す必要もない。
両方を抱えたまま——前に進むしかない。




