暁風の気づき
老太爺の告白を聞いた日の午後、麗華は執務室に籠もった。
書類に目を通すふりをしていたが、文字が頭に入らなかった。筆を取っても手が動かない。窓の外に目をやれば、鳳凰領の田園が見える。黄金色の田と、その南端に広がり始めた灰色。
その灰色を作ったのは、鳳家だ。
(大丈夫。冷静に整理すればいい。今までもそうしてきた。感情を脇に置いて、事実を並べ、最善の手を打つ。それが——私のやり方だ)
だが事実を並べるほどに、胸の底が冷えていく。百年前。鳳家の先代。蘇家との共犯。霊脈操作の失敗。国土の荒地化。数千万の民の飢え。——全ての始まりが鳳家にあった。
夕暮れ近くになって、春蘭が茶を持ってきた。鳳凰領の菊花茶。黄金色の菊の花弁が湯の中でゆっくりと開いていく。春蘭はいつも、麗華の好みに合わせて菊花茶の温度を調整する。熱すぎず、ぬるすぎず。十五年の付き合いが生む、正確な温度。
麗華はいつも通りに微笑んで受け取った。その微笑みがどれほど薄いものだったか、春蘭は気づいたかもしれない。だが何も言わず下がった。春蘭はそういう女だ。問うべきときと黙るべきときを、誰よりも正確に見分ける。
菊花茶を一口含んだ。ほのかに甘い菊の香りが口の中に広がった。だが今日は、その甘さがどこか空虚だった。この菊も鳳凰領の畑で育ったものだ。百年前の過ちの結果として残った霊脈の力で。
暁風が執務室を訪ねたのは、日が落ちてからだった。
「入るぞ」
短い声と共に、灯りの中に暁風の長身が現れた。鉄紺の軍袍の裾が揺れる。暁風は執務室に入る前に必ず声をかける。急な訪問でも。それは礼儀ではなく、暁風の性分だ。
麗華は筆を置き、穏やかに微笑んだ。
「暁風殿。何かご用ですか」
「用はない。——顔を見に来た」
率直な物言い。暁風はいつもそうだ。遠回しなことが言えない。後宮にいたら三日で追い出されるだろう。だがこの直截さが——今の麗華には、ありがたかった。
「顔を見て、いかがですか」
「嘘をついている顔だ」
麗華の微笑みが、ほんのわずか揺れた。
暁風は執務室に入り、麗華の正面の椅子に腰を下ろした。腕を組み、麗華を真っ直ぐに見る。墨色の瞳が、灯火を受けて鈍く光っていた。
「何があった。——聞かないが」
「聞かないのですか」
「あんたが話すなら聞く。話さないなら聞かない。それだけだ」
麗華は暁風を見つめた。
暁風の目は、いつも通りだった。深い墨色の瞳が、真っ直ぐに麗華を見ている。問い詰めるのでも、同情するのでもない。ただ——「ここにいる」ということを伝えている目だ。嘘がつけない目。この目で見られると、嘘をついている自分が滑稽に思える。
麗華は何も言わなかった。
話すべきかどうか、まだ判断がつかない。老太爺の告白は鳳家の最大の秘密だ。暁風に打ち明けることの是非を、冷静に計算する必要がある。暁風は皇帝の将軍だ。この情報を皇帝に報告する義務がある。打ち明ければ、情報の統制が効かなくなる可能性がある。
だが今、冷静な計算は動かなかった。歯車が錆びたように、思考が回らない。
「……少し、疲れました」
麗華の口から出たのは、そんな言葉だった。計算でも戦略でもない、ただの弱音。鳳麗華がこんな言葉を口にするのは、おそらく後宮を出てから初めてだ。
暁風は何も言わなかった。ただ、腕を解き、椅子に深く座り直した。帰る気配がない。
沈黙が流れた。
不思議な沈黙だった。苦しくない。暁風がそこにいるだけで、書斎の空気がほんの少しだけ温かくなっている。灯火が二つの影を壁に落とし、その影が揺れるたびに、暁風の輪郭が壁の上で大きく揺れた。
麗華は気づいた。自分の肩が——震えていることに。
微笑みは保っている。声も平静だ。だが肩だけが、小さく、細かく震えている。制御できない振動。感情が外に漏れ出している。後宮で三年間完璧に保った仮面に、亀裂が入っている。
暁風はそれを見ていた。
何も聞かなかった。何も言わなかった。
ただ、そばに座っていた。
机の上の菊花茶が、もう冷めている。菊の花弁が杯の底に沈み、透明になった湯が灯火の光を映している。
やがて——どれくらい時間が経ったのか分からない——麗華の肩の震えが、少しだけ収まった。
「……暁風殿」
「ああ」
「今日は——ありがとうございます」
「何もしていない」
「何もしなかったから、ありがとうございます」
暁風の目が、わずかに揺れた。だがすぐに元の真っ直ぐな目に戻り、小さく頷いた。
「俺はここにいる。——それだけだ」
その一言が、麗華の胸にゆっくりと沈んでいった。
灯火が揺れている。窓の外は暗い。虫の声が微かに聞こえる。秋の夜。鳳凰領の、いつもの夜だ。
暁風は何も聞かなかった。ただ、麗華の隣に座っていた。
それだけで——肩の震えが、少しだけ収まった。
どれくらい経っただろう。灯火が一つ消えた。油が尽きたのだ。残った灯火の光だけが、二人を照らしている。
暁風が立ち上がった。
「茶を淹れ直してくる」
「暁風殿の茶は渋いですよ」
「……前よりは上達した」
「前がひどすぎたのよ」
暁風が部屋を出ていく。その背中を見送りながら、麗華は思った。
(この人は——何も聞かない。何も求めない。ただそこにいる。それがどれほど難しいことか、この人は分かっているのだろうか)
分かっていないだろう。暁風は自分の行動の意味を言語化できない男だ。ただ正しいと思うことを、考える前にやる。
暁風が茶を持って戻ってきた。一口飲んだ。やはり渋かった。だが温かかった。
冷えた菊花茶よりも、渋くても温かい暁風の茶のほうが——今の麗華には、よほど沁みた。
窓の外で、蟋蟀が鳴いている。鳳凰領の秋の夜。いつもの夜だ。だが麗華にとっては——何もかもが変わってしまった夜でもあった。
暁風は最後まで何も聞かなかった。
麗華は最後まで何も話さなかった。
それでも——一人ではなかった。それだけが、今夜の救いだった。




