祖父の沈黙
翌朝、麗華は祖父のもとを訪ねた。
鳳老太爺の居室は、鳳家屋敷の東の離れにある。庭に面した小さな書斎と寝室。壁には古い霊脈図の写しが掛かり、書棚には地養術の伝書が並んでいる。かつて麗華が幼い頃から通い、祖父の膝の上で術の理を学んだ場所だ。書棚の一番下の段に、麗華が七歳のときに練習で写した霊脈図がまだ挟まっている。歪んだ筆跡の上に、祖父が朱墨で直しを入れた跡が残っていた。
老太爺は書斎の椅子に座っていた。窓から差し込む朝の光を浴びて、白髪が銀色に光っている。背筋は年齢のわりに伸びているが、以前より痩せた。頬の肉が落ち、手の甲に浮き出た血管が目立つ。杖が椅子の脇に立てかけてあるが、最近は書斎から庭に出ることも少なくなった。
「祖父様」
「おお、麗華。来たか」
老太爺はゆっくりと振り返った。穏やかな笑み。だがその目に、一瞬だけ——何かが走った。麗華はそれを見逃さなかった。後宮で三年間、人の表情を読み続けた目だ。微かな動揺も、隠された感情も、見落とさない。
「南部の荒地化について、ご相談があります」
「聞いておるよ。南の穀倉地帯が灰色になったと。——わしの耳にも届いている」
老太爺の声は穏やかだったが、いつもの飄々とした調子が少し欠けている。
「祖父様。地養術を全力で使いましたが、侵食を止められませんでした。術を注いでも土が応えない。霊脈の脈動そのものが消えている——いえ、翠微は『眠っている』と」
「翠微が、そう言ったか」
老太爺の声のトーンが変わった。穏やかさは残っているが、その奥に緊張がある。「翠微が」という三文字を、老太爺は噛みしめるように繰り返した。
「はい。霊脈は完全に死んでいるのではなく、深く眠り込んでいると。翠微の感知は信頼できます。ですが、眠った霊脈を起こす術を私は知らない。祖父様は——何かご存じありませんか」
沈黙が落ちた。
老太爺は窓の外に目をやった。庭の柿の木が朝日を受けて影を落としている。柿の実がいくつか色づき始めていた。今年も秋が来た。鳳凰領の秋は豊穣の季節だ。柿が熟し、稲が実り、栗が零れる。庭の柿を干し柿にして冬に食べるのが、老太爺の毎年の楽しみだった。その影を見つめたまま、老太爺は長い間黙っていた。
麗華は待った。祖父の沈黙には、いつも意味がある。教えの間合いをとっているのか、言葉を選んでいるのか——それは麗華にもわかる。
だが今日の沈黙は、そのどちらでもなかった。
教えるための沈黙ではない。何かを飲み込むための沈黙だ。
「祖父様?」
「……ああ。すまん。少し考えていた」
老太爺は振り返った。
その顔に——何かがあった。
言葉にするのが難しい表情。穏やかさの下に隠された動揺。いつも飄々とした祖父が、内側から何かに揺さぶられているような——。瞳の奥に、麗華がこれまで見たことのない暗い色が沈んでいた。
「荒地化の原因について、お心当たりは」
「麗華よ」
老太爺が麗華の名を呼んだ。いつもの「麗華」とは違う響き。幼い頃から何千回も聞いてきた名前なのに、今日の呼び方はどこか重い。
「お前は——この荒地化が、なぜ鳳凰領にまで及んだと思う」
「霊脈震の百年周期が近づいているのかもしれません。以前、祖父様が仰っていた——百年ごとに霊脈が揺れると」
「ああ。言った。——言った、のう」
老太爺の手が、膝の上で震えた。
麗華はその震えを見た。祖父の手は節くれ立っているが、地養術を使うときには力強く光る手だ。鳳凰領の大地を守り続けてきた手。その手が——震えている。老太爺がこの手で土に触れるとき、指先が淡い緑に光り、荒れた畑が一夜で生き返るのを、麗華は幼い頃から何度も見てきた。魔法のようだった。祖父の手は万能で、どんな土も甦らせると信じていた。
「祖父様。何かあるのですか。何か——知っていることが」
老太爺は答えなかった。
窓の外の柿の木を見つめたまま、唇を固く結んでいる。
「祖父様」
「……麗華。すまぬ。今日はここまでにしてくれ」
遮るような言い方だった。老太爺にしては珍しい。この人は孫に対して声を荒らげたことは数えるほどしかないが、今の声には鋭いものがあった。それは拒絶というよりも——苦悶に近い。
麗華は祖父の顔を見つめた。穏やかな老人の仮面の下に、何かが渦巻いている。それが何かは分からない。だが麗華の目は——後宮で培った観察眼は——一つの感情を読み取っていた。
罪悪感。
老太爺の目に、罪悪感があった。
麗華は初めて、祖父のその目を見た。
「……わかりました。お昼に粥をお持ちします」
「ああ。頼むよ」
麗華は立ち上がり、書斎を出た。廊下を歩きながら、祖父の表情を反芻した。
(あの目は——何を隠しているの。祖父様が罪悪感を抱く理由が、私には分からない。あの人は鳳家を守り続けてきた。地養術を継承し、鳳凰領を支えてきた。何に対して——罪を感じているの)
答えは出ない。
厨房に向かい、粥を炊いた。白米を洗い、水を量り、弱火でゆっくりと煮る。粥を炊くのは麗華の得意分野だ。米粒が膨らみ、粥の表面に薄い膜が張る頃合いを見て、棗を一粒落とす。祖父が好きな味だ。棗の赤い色が白い粥に滲み、ほのかな甘みが広がる。祖父は「棗粥は体の底から温まるのう」と言って、冬でも夏でもこの粥を喜んだ。
盆に粥椀を載せ、老太爺の居室に戻った。
祖父は先ほどと同じ姿勢で座っていた。窓の外を見つめている。柿の木の影は、朝よりも短くなっていた。
「どうぞ、祖父様」
「おお。……ありがとうよ、麗華」
老太爺が粥を一口啜った。いつもなら「旨いのう」と笑うのだが、今日は黙ったまま二口、三口と口に運んだ。棗の甘みが口の中に広がっているはずなのに、味わっている様子がない。機械のように匙を動かしている。
穏やかな食卓。だが麗華には——もう戻れない日常の匂いがした。
祖父は何かを知っている。
それを口にできないほどの——何かを。




