地養術の応急処置
南部穀倉地帯に立った麗華は、言葉を失った。
黄金色だったはずの田が、灰色に染まっていた。稲穂は力なく垂れ、風に揺れるたびに粉のように崩れ落ちる。土は乾き切り、ひび割れた表面が白く光っている。ひび割れの一つ一つが、大地の悲鳴のように見えた。午後の陽射しが灰色の土を照らしているが、光を吸い込むことすらできないのか、反射もせずにただ白く乾いて横たわっていた。
荒地だ。
鳳凰領の外で幾度も見た光景。荒地化した瑛朝の国土を視察した折、この灰色の広がりに胸を痛めたことがある。だがあのときは、対岸の景色だった。自分の領地ではなかった。鳳凰領は霊脈に守られた楽園で、荒地化とは無縁のはずだった。それが——自分の領地の、最も豊かだった穀倉地帯に広がっている。
「ここまでか」
暁風が馬を降り、灰色の土を踏んだ。靴の下で、乾いた土が砂のように崩れる音がした。かつてこの田を歩いたとき、靴裏に黒い沃土がべったりと付いたものだ。収穫を手伝う兵士たちの靴が泥だらけになるのを、暁風は苦笑しながら見ていた。あの泥の重さが、土地の豊かさの証だった。今は砂埃すら立たない。
麗華は畦道に膝をつき、灰色の土に手を触れた。
冷たかった。
鳳凰領の土は温かい。霊脈の力が通っているから、冬でもどこかに温もりがある。土に手を触れれば、霊脈の脈動が指先に伝わる。地養術の基本は、この脈動を感じ取ることから始まる。幼い頃、祖父の手に導かれて初めて鳳凰領の土に触れたとき、指先にぴりぴりと伝わった温かい振動を、麗華は今でも覚えている。「これが霊脈じゃ」と祖父は言った。「この脈動を感じられる者だけが、地養術を使える」。
だが今、麗華の指先に伝わるのは——無。
脈動がない。温もりがない。霊脈が通っていた痕跡はあるが、今は空っぽだ。水が干上がった井戸のように、力だけが抜け落ちている。土の匂いすら変わっていた。鳳凰領の土は、掘り返すと湿った草と鉄の匂いがする。豊かな土の匂い。秋ならばそこに稲の甘い香りが加わり、鳳凰領の農夫たちは「土が笑っている」と表現する。だが灰色の土からは——何も匂わない。乾いた無機質な白さ。匂いを持つほどの有機物が、もう残っていない。
「……やります」
麗華は両手を土に押し当て、地養術を行使した。
術式は体に染み込んでいる。霊脈に意識を沈め、力を畑に注ぐ。幼い頃から祖父に叩き込まれた、鳳家秘伝の術。呼吸を整え、意識を深く、深く沈めていく。体の奥から力を引き出し、両手を通じて土に注ぐ。いつもなら、霊脈がそれに応えて脈動を返してくれる。力のやり取り。対話。地養術とは大地との対話なのだと祖父は教えてくれた。
だが。
力を注いでも、土が応えない。
水を砂漠に撒くように、力が吸い込まれ、散逸していく。留まらない。循環しない。霊脈の脈動がないから、注いだ力を受け止める器がない。対話の相手が——いない。声を出しても誰も応えない部屋で叫び続けるような虚しさが、麗華の全身を包んだ。
歯を食いしばり、さらに力を込めた。額に汗が浮かぶ。指先が淡い緑色に光る——地養術の発動を示す光だが、その光が土に到達した途端、灰色に呑まれて消えていく。灯火を嵐の中に差し出すように、光は一瞬で消えた。
「麗華」
暁風の声が聞こえた。だが今は応えられない。
もっと力を。もっと深く。
霊脈の底に意識を沈める。地養術の限界を押し広げるように、自分の中の力を絞り出す。こめかみが痛む。視界の端が暗くなる。体力が削られているのが分かる。唾を飲み込む力さえ惜しい。
——わずかに。
灰色の土の一画に、かすかな色が戻った。乾いた白が、ほんのわずかだけ黒みを帯びた。霊脈の残滓が、麗華の力に反応したのだ。
だがそれだけだった。
侵食は——止まらない。
麗華が力を注いだ範囲の外側では、荒地化がじわじわと北に向かって進行し続けている。麗華一人の力では、侵食の速度を緩めるのが精一杯だ。止めることすらできない。堤で川を塞ごうとしているのに、水は堤を乗り越え、堤の脇を回り込み、堤の下を潜って流れていく。
術を解いた瞬間、反動が来た。
膝が折れた。両手が土の上で震えている。視界が一瞬暗くなり、こめかみを痛みが走る。地養術の消耗だ。大規模に術を使えば、術者の体力を大きく削る。口の中が乾ききって、砂を噛んでいるような感触がした。
「足りない」
麗華は呟いた。
「力が——足りない」
暁風が黙って近づき、麗華の腕を支えた。何も言わず、ただ立ち上がれるよう手を添えた。暁風の手は大きく、武骨で、温かかった。灰色の冷たい土に触れ続けた後では、人の体温がひどく懐かしい。
麗華は暁風の手を借りて立ち上がった。灰色の大地が、夕陽を受けて冷たく光っていた。
かつてこの場所は黄金色だった。麗華の地養術が育てた、最も実り豊かな穀倉地帯。刈り入れの季節には稲穂が風に波打ち、農夫たちが歌いながら鎌を振るった。収穫した新米を炊いたときの香りは格別で、白い湯気の中に穀物の甘みが凝縮されていた。その新米で炊いた飯を、麗華は毎年最初の一膳を祖父と分け合って食べた。「今年も旨いのう」と祖父が笑う。それが秋の恒例だった。
その記憶と、今の灰色の現実が、麗華の胸の中で重なった。
(この土は——私が育ててきた土だ。祖父が守り、私が引き継いだ土。その土が、死んでいく)
暁風が何かを言おうとして、口を閉じた。麗華の表情を見て、今は言葉がいらないと判断したのだろう。
麗華の手がまだ震えている。
その震えを隠すように、麗華は灰色の土を一掴み、掌に載せた。冷たい砂の感触。指の間からさらさらと零れていく。この土で育った稲が、白い飯になり、粥になり、餅になり、人の体を作り、命を繋いできた。鳳凰領の食卓は全て、この土から始まっている。その始まりが——断たれようとしている。
「……足りない。力が、足りない」
呟きは風に散った。灰色の大地は何も応えなかった。




