領民の動揺
鳳凰領南部の異変は、翌朝には市場に届いていた。
早朝の市場は本来、活気に満ちている。農家が取れたての青菜を並べ、豆腐屋が木綿豆腐を竹篭に並べて湯気を立て、粥売りが大鍋を掻き回す。鳳凰領の朝市には独特の匂いがある。刻み葱と生姜を散らした白粥の匂い、蒸籠から立ちのぼる饅頭の甘い湯気、塩漬けの冬菜を刻む音と香り。それらが混じり合って、市場全体が一つの食卓のような空気をまとう。鳳凰領の市場は瑛朝で最も豊かな市場だと誰もが認めるところだ。
だがこの日、市場の空気は違っていた。
「南の田が灰色になったって——」
「嘘だろう。鳳凰領でそんなこと——」
「嘘じゃねえ。孫六の畑を見た者がいる。稲穂が粉みたいに崩れたって」
噂は水のように広がった。
最初は囁きだった。だが青菜を値踏みする主婦の手が止まり、穀物を量る商人の顔が曇り、粥売りが鍋から目を離した頃には——囁きは波になっていた。蒸籠の饅頭が湯気を立て続けているのに、誰も買いに来ない。粥売りの看板品である蓮の実入り甘粥が、鍋の中で静かに冷めかけている。
「穀物を買っておかないと——」
「米はまだあるのか。今のうちに——」
買い占めが始まった。
穀物屋の前に列ができ、押し合いへし合いが起きた。値段が跳ね上がる前に——そう考えた者が一人いれば、十人が続く。十人が動けば百人が走る。理屈ではない。恐怖の伝染だ。
鳳凰領の外では、荒地化した国土の民が飢えに苦しんでいる。その噂は鳳凰領の民も聞いている。帝都ですら食糧が逼迫したことは知っている。「鳳凰領だけは大丈夫」——その確信が揺らいだ瞬間、恐怖は簡単に民を呑み込む。荒地の国から届く話は悲惨だった。草の根を食べ尽くし、樹皮を剥いで粥に混ぜ、それすら尽きれば土を食む。そんな暮らしが、自分たちにも降りかかるかもしれない。
麗華が市場に到着したのは、混乱が最も激しくなった昼前だった。
馬車を降りた麗華の目に映ったのは、穀物屋の前で怒鳴り合う民と、泣きじゃくる子供を抱えた母親と、荷車に米袋を積み上げて走り去ろうとする男の姿だった。
(帝都に起きたことが——ここで再現されている)
皮肉だった。食糧を武器にして帝都を揺さぶった麗華が、今度は自分の領地で食糧パニックを目の当たりにしている。あのとき帝都の民が感じた恐怖を、今、鳳凰領の民が感じている。麗華が精密に設計した兵糧攻めは、権力者だけが困るようにしていた。民には市糧を通じて穀物を供給し続けた。だが今ここで起きていることは——民が直接怯えている。設計も計算もない、剥き出しの恐怖だ。
だが感傷に浸る暇はない。
「皆さん」
麗華の声が市場に響いた。
穏やかだが通る声。後宮で鍛えた発声は、広間でも市場でも、人の耳に届く。怒鳴り合いの声が次第に収まり、民の目が麗華に集まった。
「鳳凰領の食糧備蓄は十分にあります。今季の収穫は南部の一部を除いて予定通りです。買い占めの必要はありません」
数字を挙げた。備蓄米の量。今季の収穫見込み。北部と中部の田畑が健在であること。南部の被害範囲が限定的であること。米に換算すれば何石。雑穀を加えれば何石。一世帯あたりの年間消費量で割れば、仮に今年の収穫が三割減っても、翌年の麦の収穫まで領民全員を養える計算になること。
麗華は数字を暗記していた。食糧経済の専門家として、領内の備蓄と収穫の数値は常に頭に入っている。その正確さが、民の動揺を抑えた。
「南部で何が起きているかは、私が直接確認します。対処します。ですから——今は、いつも通りの暮らしを続けてください」
民がざわめいた。顔を見合わせ、次第に押し合いが収まっていく。
「鳳様がそう仰るなら——」
「鳳様がいれば大丈夫だ」
「ああ。鳳様が何とかしてくださる」
信頼の言葉が、あちこちから聞こえた。
市場は徐々に平静を取り戻した。穀物屋の前の列は解け、主婦たちは再び青菜を値踏みし始め、粥売りが大鍋を掻き回す音が戻ってきた。蓮の実入り甘粥を求める客がぽつぽつと現れ始めた。冷めかけた粥に火を入れ直す粥売りの手つきに、日常が戻りかけている。
麗華は微笑んだ。いつもの、穏やかな微笑みだ。
だが市場を離れ、馬車に戻った瞬間——微笑みが消えた。
「鳳様がいれば大丈夫」
その言葉が、かつてない重さで胸に落ちた。
(食糧を武器にしてきた。帝都を揺さぶり、朝廷を動かし、外交を制した。食糧は私の力だった。——だけど今、その食糧が守るべきものに変わっている)
武器としての食糧と、守るべきものとしての食糧。
その転換を、麗華は市場の民の目の中に見た。
彼らが信じているのは食糧戦略でも政治手腕でもない。「鳳様が食べさせてくれる」という、もっと根源的な信頼だ。毎朝の粥。毎晩の白飯。秋には新米が食卓に並び、冬には温かい汁物が体を温めてくれる。その「当たり前」を、鳳様が守ってくれる——それが、領民の信頼の形だ。
その信頼は——重い。
帝都の権力者を詰ませるのとは、まるで違う重さだ。
(あの人たちを飢えさせるわけにはいかない。だけど——荒地化が止められなかったら)
馬車の中で、麗華はそっと目を閉じた。
市場の喧騒が遠ざかる。粥売りの大鍋から漂う湯気の匂いが、窓から風に乗って入ってきた。穀物と葱の素朴な香り。鳳凰領の日常の匂い。粥売りが火を入れ直した蓮の実入り甘粥の、ほのかに甘い蒸気が混じっている。
この匂いを——守れるのか。
馬車が揺れた。石畳から土の道に変わったのだろう。振動が体に伝わるたびに、市場の民の顔が脳裏に浮かんだ。穀物屋の前で怒鳴っていた男。子供を抱えて泣いていた母親。「鳳様がいれば大丈夫だ」と言った老人の、皺だらけの顔。
あの老人は——きっと鳳凰領で生まれ、鳳凰領で育ち、鳳家の地養術が育てた穀物を食べて生きてきたのだ。七十年か、八十年か。その全ての食事が、鳳家の力に支えられていた。
その力が今、揺らいでいる。
麗華は目を開けた。馬車の窓から見える田園は、まだ黄金色だった。稲穂が夕方の風に波打ち、かすかに甘い稲の匂いを運んでくる。
(この景色を、あの匂いを、あの味を——守らなければならない。何としても)
答えは、まだ出ない。
だが問いだけは、はっきりと胸に刻まれた。




