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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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灰の畑

 最初に異変に気づいたのは、鳳凰領ほうおうりょう南部の農夫だった。


 朝靄あさもやが晴れた穀倉地帯の一角で、老農夫の孫六まごろくが稲穂を掴み、その手を震わせた。黄金色に実るはずの穂が——灰色に変色していた。


 触れた指先に伝わるのは、冷たい砂のような感触。穂の中身は空だった。殻だけが残り、中の米粒が灰のように崩れている。穂を握りしめると、さらさらと指の間をすり抜けた。昨日まで重たげに頭を垂れていた稲穂が、一夜にして空蝉うつせみのように軽い。


「なんだ、こりゃあ……」


 孫六は腰を折り、畦道あぜみちに這いつくばって土を掬った。いつもは黒く湿った沃土よくどが、白っぽく乾いている。指の間からさらさらと零れ落ちる。まるで——砂だ。鳳凰領の土は本来、手で握れば固まるほど水気を含んでいる。霊脈れいみゃくの恵みを受けた土は温かく、生きている。この土地で四十年稲を育ててきた孫六の手は、そんな土の温度を知り尽くしていた。だからこそ分かる。この土は——冷たい。死んでいる。


 一畝ひとせだけではなかった。


 畦を越え、隣の田を見渡す。稲穂の先が灰に染まり、風に揺れるたびに粉のように崩れていく。その向こうも、さらにその向こうも。穀倉地帯の南端から、灰色の帯が北に向かって伸びていた。朝日が低い角度で射し込むと、健全な田の黄金色と灰色の境界線が残酷なほどくっきりと見えた。まるで、大地に引かれた一本の線だ。あちら側は生き、こちら側は死んでいる。


「早馬だ! 早馬を出せ!」


 孫六の叫びが朝の田園に響いた。近くの農夫たちが駆けつけ、灰色に変わった田を見て絶句した。誰もが同じ顔をしていた。信じられない、という顔。鳳凰領で——この豊穣の土地で——こんなことが起きるはずがない、という顔。


 早馬が鳳凰領の中枢に飛び込んだのは、その日の午後だった。


 麗華は執務室で翠微すいびからの報告書を精査していた。趙文昌ちょうぶんしょうの弾劾後の政情分析、蘇家の資産凍結状況、朝廷の新体制に関する春蘭しゅんらんの情報——どれも重要な案件だった。机の上には春蘭が淹れた菊花茶が置かれているが、すっかり冷めている。書類に集中して、手をつける暇がなかった。菊の花弁が杯の底に沈み、薄い金色の液体が午後の光を受けて静かに光っていた。


 廊下を駆ける足音が、それらを一瞬で吹き飛ばした。


「お嬢様! 南部穀倉地帯より急報です!」


 飛び込んできた使者の顔は蒼白だった。汗と土埃にまみれた姿が、事態の深刻さを物語っている。馬を三頭乗り継いで来たのだろう、衣服の裾が泥と汗で黒く濡れていた。


「稲が——灰色に。土も——死んで——」


 使者の言葉は途切れ途切れだったが、麗華にはそれだけで十分だった。


 筆が止まった。


 灰色。土が死ぬ。


 荒地化だ。


 鳳凰領の外では百年前の霊脈震れいみゃくしん以降、大地の荒地化が進行している。瑛朝えいちょうの国土の大半が枯れ果て、まともに穀物が育つ土地はほとんど残っていない。だが鳳凰領だけは霊脈が生きており、地養術ちようじゅつによって豊かな農地を維持してきた。それが鳳家の力の源であり、麗華の食糧戦略の根幹だった。


 その鳳凰領に——荒地化が侵食してきた。


「場所は。範囲は」


 声は平静だった。だが麗華自身、その平静さが薄い氷の上に立つような危うさであることを自覚していた。冷めた菊花茶の杯が、かすかに卓上で揺れている。自分の手が微かに震えていることに気づき、意識して震えを止めた。


「南端の稲作地帯です。幅は——畑三十畝さんじっせ分以上。昨日までは異常なかったと孫六が」


「昨日までは」


 一夜で三十畝以上。その速度は尋常ではない。鳳凰領の外の荒地化は、何年もかけてじわじわと進行するものだ。一夜でこれほどの範囲が灰色に変わるということは——霊脈そのものが急激に衰弱していることを意味する。


 麗華は椅子から立ち上がった。窓の外に目をやる。執務室から見える鳳凰領の田園は、まだ黄金色に輝いていた。刈り入れを待つ稲穂が午後の風に波打ち、いつもと変わらぬ秋の風景が広がっている。だがその南の果てに——目には見えないが——灰色が忍び寄っている。


(これまでの荒地化は鳳凰領の外の話だった。辺縁部に近づいてはいたけれど、領内にまで侵食してきたのは——初めてだ)


 麗華の右手が、無意識に左手首の内側を撫でた。怒りを感じたときの癖——だが今回は怒りではない。恐怖だった。


「馬を用意して。現場に向かいます」


「お嬢様、お一人では——」


「翠微と暁風殿ぎょうふうどのに伝えて。すぐに南部穀倉地帯に出発すると」


 使者が駆け去った後、麗華は一瞬だけ目を閉じた。


 食糧を武器にしてきた。帝都を兵糧攻めにし、外交を動かし、宰相を弾劾に追い込んだ。全ては鳳凰領の穀物が——鳳家の地養術が——揺るぎないという前提の上に成り立っていた。


 その前提が、崩れようとしている。


 食糧で帝国を詰ませた女だ。だが食糧そのものが失われるという事態は——政治手腕でも知略でも、どうにもならない。相手は朝廷の官僚でも蘇家の策士でもなく、大地そのものだ。交渉の余地がない。


 目を開けた麗華の瞳に、一瞬だけ走ったのは恐怖だった。


 制御できない——という恐怖。


 それは後宮で廃妃を宣告されたときにも感じなかった種類のものだった。廃妃は予測していた。食糧戦略も、外交も、弾劾も——全て麗華の計算の中にあった。


 だが、大地の荒地化は。


 これだけは、計算の外にある。


 窓の外で、黄金色の穂が風に揺れていた。穂の一つ一つに、鳳凰領の農夫たちの一年の汗が詰まっている。刈り入れの季節を待つ穂は重たく、豊かで、この国の七割の食を支えている。その向こうに灰色が迫っていることを、麗華の目はまだ捉えられない。だが肌が知っていた。霊脈に触れ続けてきた指先が、大地の悲鳴を感じ取っていた。


 麗華は深く息を吸い、背筋を正した。


 恐怖は一瞬だけ許す。一瞬だけ。


 それ以上は——許さない。


 卓の上の冷めた菊花茶を一息に飲み干した。冷たくなった茶は、菊の苦みだけが舌に残った。


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