誰も養えなくなる
灰色の畑の前で、麗華は立ち尽くしていた。
風が枯れた土を巻き上げ、灰色の塵が空に舞った。かつて金色の穂波が陽光に輝いていた場所。鳳凰領の象徴だった風景。今は——何もない。灰と砂だけの不毛の大地が、どこまでも続いている。
翠微と暁風を先に帰した後、麗華は一人で残った。
畑の前に立ち、見渡した。
辺縁部の畑は全滅だ。外縁部も半分が枯れかけている。中央部はまだ緑を保っているが——いつまで持つかわからない。翠微の耳には、中央部の境界でもきしみが聞こえ始めているという。
(食糧を武器にしてきた)
麗華は静かに、自分の歩んできた道を振り返った。
(廃妃にされて鳳凰領に帰った。朝廷への穀物を止めた。帝都を兵糧攻めにした。食糧で外交を制し、宰相を弾劾し、隣国との和平を結んだ。戦場では兵站を組み、敵の補給路を断ち、食で戦を止めた)
(全ての力の源は——この土地だった。鳳凰領の豊かさ。霊脈の力。地養術で育てた穀物。それが私の武器だった)
(その武器が——失われようとしている)
風が止んだ。灰色の塵が地面に落ちた。静寂が戻った。鳥の声もない。虫の音もない。生きているものの気配が、この場所から消えていた。大地が沈黙している。死んだ大地の、重い沈黙。かつてここには蚯蚓が這い、蟋蟀が鳴き、蜻蛉が穂先に止まった。その全てが消えた。
麗華は土に手を当てた。最後にもう一度、地養術を試みた。
力を込めた。全力で。持てる全ての力を。
指先に光が宿った。淡緑色の光が土に流れ込む。かつてないほどの力を注いだ。額に汗が浮かび、視界がちかちかと点滅した。こめかみが脈打ち、喉の奥が渇く。体中の水分が術に吸い取られていくような感覚。
——何も起きなかった。
光は土に吸い込まれることなく、消えた。霊脈が応答しない。力を注ぐ先がない。大地が——拒絶しているのではない。受け取る力さえ、失っているのだ。
手を離した。指先が冷たい。体中の力が抜けていく。
「……これでは、誰も養えなくなる」
声が震えた。
初めてだった。食糧の話をして、声が震えたのは。
帝都を揺さぶった時も、外交で食糧をカードにした時も、戦場で敵の補給路を断った時も——声は震えなかった。冷静で、計算通りで、余裕の笑みを崩さなかった。
だが今——
「領民を養えない。朝廷に穀物を送れない。隣国との食糧協定を守れない。——何もできなくなる」
膝が震えた。今度は立っていられた。だが——膝が震えているのを隠せなかった。
背後に気配があった。
振り返ると、暁風が立っていた。
「……帰したはずです」
「帰ったが、戻ってきた」
「なぜ」
「あんたを一人にしておけなかった」
暁風が歩いてきて、麗華の隣に立った。足音が灰色の土を踏む音だけが聞こえた。軍靴が乾いた砂を踏む、空虚な音。
何も言わなかった。ただ、そこにいた。
灰色の大地を見つめる二人の影が、地面に長く伸びている。夕日が沈みかけていた。橙色の光が灰色の大地を染め、一瞬だけ——金色に見えた。かつての豊かな畑の幻影のように。
麗華は口を開いた。
「暁風殿」
「ああ」
「私は——怖い」
暁風が麗華を見た。
「食糧がなくなることが怖い。人を養えなくなることが怖い。——自分が無力になることが怖い」
暁風は何も言わなかった。言葉が要らないと知っているのだ。
ただ隣に立っている。肩が触れるか触れないかの距離で。暁風の体から、革と汗と——かすかに茶の香りがした。朝、厨房で茶を淹れた名残りだろうか。日常の匂いだ。この匂いが、灰色の世界に小さな温もりを落としている。
風が吹いた。麗華の髪が揺れた。灰色の土が舞った。
「でも——逃げない」
麗華の声が、震えたまま、しかし確かに響いた。灰色の大地に吸い込まれず、風に乗って遠くまで届く声だった。
「食を武器にした者として。鳳家の当主として。——この現実から、逃げない」
暁風が小さく頷いた。
暗くなりかけた空に、二つ目の星が現れた。三つ目。四つ目。灰色の大地の上に、星空が広がっていく。足元の土は死んでいるが、空には命が輝いている。麗華はその対比を見つめた。地上の豊かさが失われても、天の光は変わらない。だがこの星の光が、枯れた大地に何かをもたらすことはない。星は輝くだけだ。大地を蘇らせるのは——人の手しかない。麗華の手。翠微の手。鳳家が百年かけて繋いできた地養術の手。
「俺もだ。逃げない」
二人は灰色の畑の前に立ち続けた。
夕日が沈み、空が暗くなっていく。橙から紅に、紅から紫に、紫から墨色に。空の色が変わるたびに、灰色の大地の表情も変わった。
鳳凰領の安全神話は崩壊した。食糧戦略の前提が崩れた。荒地化が、唯一の穀倉地帯を侵食し始めた。
(鳳凰領が安全でなくなった世界で——私に何ができるのか)
答えはまだない。
だが——隣に暁風がいる。鳳凰領に翠微がいる。春蘭がいる。祖父がいる。
一人ではない。
暗くなった空に、最初の星が光った。小さな光だが——確かに、光っている。
「……帰りましょう」
「ああ。帰ろう」
二人で歩き出した。灰色の畑を背にして、鳳凰領の中心に向かって。遠くから微かに、夕餉の支度の匂いが風に乗って届いた。味噌を溶く温かい香り。誰かが竈に火を入れ、鍋に水を張り、米を研いでいる。まだ——日常は続いている。
麗華は歩きながら、振り返らなかった。
でも——認めなければならない日は、必ず来る。
その日までに。
(方法を見つける。必ず。——食で人を生かす方法を)
足元の土は、まだ茶色かった。まだ——生きている土だ。
その土を踏みしめて、麗華は歩いた。
暁風が半歩後ろを歩いている。その足音が——心強かった。




