表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
210/240

誰も養えなくなる

 灰色の畑の前で、麗華は立ち尽くしていた。


 風が枯れた土を巻き上げ、灰色の塵が空に舞った。かつて金色の穂波が陽光に輝いていた場所。鳳凰領の象徴だった風景。今は——何もない。灰と砂だけの不毛の大地が、どこまでも続いている。


 翠微と暁風を先に帰した後、麗華は一人で残った。


 畑の前に立ち、見渡した。


 辺縁部の畑は全滅だ。外縁部も半分が枯れかけている。中央部はまだ緑を保っているが——いつまで持つかわからない。翠微の耳には、中央部の境界でもきしみが聞こえ始めているという。


(食糧を武器にしてきた)


 麗華は静かに、自分の歩んできた道を振り返った。


(廃妃にされて鳳凰領に帰った。朝廷への穀物を止めた。帝都を兵糧攻めにした。食糧で外交を制し、宰相を弾劾し、隣国との和平を結んだ。戦場では兵站を組み、敵の補給路を断ち、食で戦を止めた)


(全ての力の源は——この土地だった。鳳凰領の豊かさ。霊脈の力。地養術で育てた穀物。それが私の武器だった)


(その武器が——失われようとしている)


 風が止んだ。灰色の塵が地面に落ちた。静寂が戻った。鳥の声もない。虫の音もない。生きているものの気配が、この場所から消えていた。大地が沈黙している。死んだ大地の、重い沈黙。かつてここには蚯蚓が這い、蟋蟀が鳴き、蜻蛉が穂先に止まった。その全てが消えた。


 麗華は土に手を当てた。最後にもう一度、地養術を試みた。


 力を込めた。全力で。持てる全ての力を。


 指先に光が宿った。淡緑色の光が土に流れ込む。かつてないほどの力を注いだ。額に汗が浮かび、視界がちかちかと点滅した。こめかみが脈打ち、喉の奥が渇く。体中の水分が術に吸い取られていくような感覚。


 ——何も起きなかった。


 光は土に吸い込まれることなく、消えた。霊脈が応答しない。力を注ぐ先がない。大地が——拒絶しているのではない。受け取る力さえ、失っているのだ。


 手を離した。指先が冷たい。体中の力が抜けていく。


「……これでは、誰も養えなくなる」


 声が震えた。


 初めてだった。食糧の話をして、声が震えたのは。


 帝都を揺さぶった時も、外交で食糧をカードにした時も、戦場で敵の補給路を断った時も——声は震えなかった。冷静で、計算通りで、余裕の笑みを崩さなかった。


 だが今——


「領民を養えない。朝廷に穀物を送れない。隣国との食糧協定を守れない。——何もできなくなる」


 膝が震えた。今度は立っていられた。だが——膝が震えているのを隠せなかった。


 背後に気配があった。


 振り返ると、暁風が立っていた。


「……帰したはずです」


「帰ったが、戻ってきた」


「なぜ」


「あんたを一人にしておけなかった」


 暁風が歩いてきて、麗華の隣に立った。足音が灰色の土を踏む音だけが聞こえた。軍靴が乾いた砂を踏む、空虚な音。


 何も言わなかった。ただ、そこにいた。


 灰色の大地を見つめる二人の影が、地面に長く伸びている。夕日が沈みかけていた。橙色の光が灰色の大地を染め、一瞬だけ——金色に見えた。かつての豊かな畑の幻影のように。


 麗華は口を開いた。


「暁風殿」


「ああ」


「私は——怖い」


 暁風が麗華を見た。


「食糧がなくなることが怖い。人を養えなくなることが怖い。——自分が無力になることが怖い」


 暁風は何も言わなかった。言葉が要らないと知っているのだ。


 ただ隣に立っている。肩が触れるか触れないかの距離で。暁風の体から、革と汗と——かすかに茶の香りがした。朝、厨房で茶を淹れた名残りだろうか。日常の匂いだ。この匂いが、灰色の世界に小さな温もりを落としている。


 風が吹いた。麗華の髪が揺れた。灰色の土が舞った。


「でも——逃げない」


 麗華の声が、震えたまま、しかし確かに響いた。灰色の大地に吸い込まれず、風に乗って遠くまで届く声だった。


「食を武器にした者として。鳳家の当主として。——この現実から、逃げない」


 暁風が小さく頷いた。


 暗くなりかけた空に、二つ目の星が現れた。三つ目。四つ目。灰色の大地の上に、星空が広がっていく。足元の土は死んでいるが、空には命が輝いている。麗華はその対比を見つめた。地上の豊かさが失われても、天の光は変わらない。だがこの星の光が、枯れた大地に何かをもたらすことはない。星は輝くだけだ。大地を蘇らせるのは——人の手しかない。麗華の手。翠微の手。鳳家が百年かけて繋いできた地養術の手。



「俺もだ。逃げない」


 二人は灰色の畑の前に立ち続けた。


 夕日が沈み、空が暗くなっていく。橙から紅に、紅から紫に、紫から墨色に。空の色が変わるたびに、灰色の大地の表情も変わった。


 鳳凰領の安全神話は崩壊した。食糧戦略の前提が崩れた。荒地化が、唯一の穀倉地帯を侵食し始めた。


(鳳凰領が安全でなくなった世界で——私に何ができるのか)


 答えはまだない。


 だが——隣に暁風がいる。鳳凰領に翠微がいる。春蘭がいる。祖父がいる。


 一人ではない。


 暗くなった空に、最初の星が光った。小さな光だが——確かに、光っている。


「……帰りましょう」


「ああ。帰ろう」


 二人で歩き出した。灰色の畑を背にして、鳳凰領の中心に向かって。遠くから微かに、夕餉の支度の匂いが風に乗って届いた。味噌を溶く温かい香り。誰かが竈に火を入れ、鍋に水を張り、米を研いでいる。まだ——日常は続いている。


 麗華は歩きながら、振り返らなかった。


 でも——認めなければならない日は、必ず来る。


 その日までに。


(方法を見つける。必ず。——食で人を生かす方法を)


 足元の土は、まだ茶色かった。まだ——生きている土だ。


 その土を踏みしめて、麗華は歩いた。


 暁風が半歩後ろを歩いている。その足音が——心強かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ