百年前にも
老太爺が麗華と翠微を呼んだのは、翌日の午後だった。
「話すべきことがある。——二人とも、座りなさい」
祖父の声は落ち着いていたが、どこか覚悟の響きがあった。昨日の弱々しさは消え、代わりに決意が宿っている。目の光が違う。深い茶色の瞳に、底光りするような知性の光が戻っていた。一晩のうちに、何かが変わったのだ。
麗華と翠微が向かい合って座った。老太爺は窓辺の椅子で、二人を見下ろす形になる。窓からの光が祖父の白髪を照らし、顔の半分に影を落としていた。机の上に杖が横たえてある。両手は膝の上に置かれ、節くれ立った指が組まれている。
「昨日の夜——考えた。もう、隠しておくわけにはいかん」
「お祖父様」
「百年前の話をする」
老太爺が目を閉じた。長い息を吐く。胸が大きく膨らみ、ゆっくりと縮んだ。その息の深さが、これから語る言葉の重さを物語っていた。
「百年前にも——荒地化はあった」
翠微が目を丸くした。
「百年前にも?」
「そうじゃ。百年前の霊脈震が起きる前にも——大地が少しずつ灰色に変わっていった。最初は辺縁部から。次に外縁部。そして——」
老太爺が目を開けた。遠い過去を見る目だ。
「中央部にまで達した」
「百年前にも、同じことが——」
「同じだ。わしの祖父の代だ。わしは当時まだ子供だったが——大地が灰色に変わっていく光景は覚えておる。畑が枯れ、穂が折れ、土が砂になっていく。子供心に、世界が終わるのだと思った」
老太爺の目が遠くを見ていた。百年前の記憶を辿っている。皺の奥に、幼い日の恐怖が浮かんでいる。声が低くなり、速度が落ちた。一言一言を記憶の底から掬い上げるように語る。
「あの時、先代の当主——わしの父が——術を使った。大規模な地養術だ。鳳凰領全体の霊脈を活性化させようとした」
「それが——霊脈震の原因ですか」
老太爺が首を振った。
「それだけではない。だが——全ては言えぬ」
「お祖父様」
「全ては言えぬと言うた。だが——覚悟だけはしておけ」
麗華は唇を引き結んだ。祖父の目を見つめた。
「何の覚悟ですか」
「荒地化は——止まらぬかもしれん。地養術では——」
老太爺が言いかけて、口を閉じた。言葉を飲み込んだのだ。唇の端が微かに痙攣し、飲み込んだ言葉の重さが窺えた。
「翠微」
「はい、おじいさま」
「お前の耳には——土の声が聞こえると言っておったな」
「はい。聞こえます」
「どんな声じゃ。今の辺縁部の土は」
翠微が考え込んだ。言葉を選ぶように、指先を揉んだ。三つ編みの先をいじりかけて、やめた。真剣な場だと、翠微なりに分かっている。窓の外で冬の風が庭木を揺らし、枯れ葉が数枚、硝子に当たって乾いた音を立てた。部屋の中の沈黙が、一層深くなった。
「……苦しそうな声です。きしむような。泣いてるような。——でも」
「でも?」
「怒ってるんじゃないんです。苦しんでるけど——助けを求めてるような。『治してほしい』って言ってるみたいな」
老太爺が翠微をじっと見つめた。その目に——何かが灯った。希望とも、恐怖ともつかない光だ。長い歳月の奥底から湧き上がったような、複雑な感情。唇が微かに開き、息を吸い直した。何十年も待ち望んでいた言葉を、今ようやく聞いたかのような顔だった。
「お前の耳は——わしの想像以上かもしれぬな」
「おじいさま?」
翠微が「土が痛がっている」と言った時、老太爺の目に走った光を、麗華は見逃さなかった。あの一瞬の光は——驚きではなかった。確認だ。予感していたことが現実になった、その確認の光。そして同時に——期待の光でもあった。翠微の感知力に対する、何かの期待。「治す力」と祖父は言った。翠微の力は「壊れたものを治す」力だと。それが荒地化に対して何を意味するのか。麗華にはまだ答えが見えない。だが祖父は——見えているのかもしれない。
「昔の穀物はもっと味が濃かった。霊脈が元気だった頃は——大地の力がそのまま穀物に宿った。米は甘く、野菜は味が濃く、果実は蜜のようだった。わしが子供の頃に食べた桃は——皮を剥いた瞬間に汁が溢れて、甘い香りが部屋中に広がった。今の桃には、あの香りはない」
老太爺が遠い目をした。百年前の味を思い出しているのだ。口の中で何かを噛みしめるような動きをした。消えてしまった味を、記憶の中で取り戻そうとしているかのように。
「それが百年かけて——薄くなった。大地の力が、少しずつ失われていった。わしの代でも止められなかった。地養で抑え込んだつもりだったが——蓋をしていただけかもしれぬ」
「お祖父様。では——」
「覚悟だけはしておけ、と言うた。鳳凰領が安全ではなくなる日が来るかもしれぬ。その時——」
老太爺が杖をつき、立ち上がった。杖の先が床を叩く音が重い。
「お前には、わし以上の力がある。そして翠微には——わしにもない力がある。二人でなら——あるいは」
それ以上は言わなかった。
「疲れた。今日はここまでだ」
老太爺が杖に体重を預けた時、膝が微かに震えた。節くれ立った手が杖の握りを白くなるほど強く掴んでいる。かつてこの手が大地に力を注ぎ、鳳凰領を守り続けた。その手が今、自分の体を支えるのがやっとだ。
麗華は立ち上がりながら、祖父の背中を見つめた。小さくなった背中。だがその背中に——語りきれない重荷が載っている。
(全てを語ってくれない。何かを——まだ隠している。鳳家の秘密。百年前の真実)
翠微が廊下で麗華に耳打ちした。
「師匠。おじいさまは——怖がっているように見えました」
「……ええ。私にもそう見えた」
(何を恐れているのだろう。百年前の繰り返しか。それとも——もっと深い何かか)
答えは、まだ闇の中だった。




