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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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枯れた穂

 辺縁部の農夫が朝一番で駆け込んできた。


「麗華様。穂が——穂が枯れました」


 麗華は走った。簪が揺れ、帯が乱れるのも構わず、門を飛び出した。朝露に濡れた石畳で足を滑らせかけたが、構わず走り続けた。息が白く凍り、冷たい空気が肺を刺す。


 辺縁部の畑に着いた時、目の前に広がっていたのは——茶色の穂だった。


 数日前には、まだ緑が残っていた。弱々しいながらも生きていた穂が——今日は完全に茶色く変色していた。茎が折れ曲がり、実が入っていない。風が吹くと、枯れた穂が紙のように薄い音を立てて揺れた。生きている穂の音とは違う。命のない音だ。豊かな穂が風に揺れる時の、あのさわさわという音——あの音が、ここにはもうない。代わりに聞こえるのは、乾いた茎がかさかさと擦れ合う、紙屑のような音だけだ。


「いつから」


「三日前までは——まだ緑が残っていたのに。昨日の朝に見たら、もう——」


 農夫の声が震えていた。目尻に涙が浮かんでいる。この畑は先祖代々のものだ。父が耕し、祖父が拓いた畑だ。掌に染みついた土の色が、畑への愛着を物語っている。日に焼けた手の指が、折れた穂の根元を撫でていた。


 麗華は畑に入った。足元の土が硬い。中央部の畑なら靴底が微かに沈むのに、ここでは石の上を歩いているように足音が乾いた音を立てた。穂を手に取った。乾いている。水分が抜けきっている。指で挟むと、ぱきりと折れた。折れた断面は白く乾き、中の組織が空洞になっていた。穂から匂いがしない。生きた穂は青草の爽やかな香りがする。この穂には、何の匂いもなかった。


「この穂は——実らない」


 声が出た。自分でも驚くほど冷静な声だった。冷静すぎて、かえって不自然だ。


「誰の腹も、満たせない」


 周囲の領民が集まってきた。噂は速い。「辺縁部の畑が枯れた」という報せは、半日で鳳凰領中に広がった。


「荒地化が鳳凰領に来たのか」


「嘘だろう。ここは麗華様の地養があるのに」


「地養でも止められないのか?」


 不安が恐怖に変わりかけていた。声が高くなり、表情が強張っている。子供を抱えた母親が、不安そうに畑を見つめていた。赤子が泣き声を上げ、母親の腕の中でもがいている。


 風が吹き、枯れた穂の欠片が空に舞い上がった。茶色い粉末が陽光に照らされて金色に光る——一瞬だけ、かつての穂の色を思い出させた。すぐに風に散り、灰色の空に溶けていった。


 麗華は畑の前に立ち、領民に向き直った。背筋を伸ばし、視線を一人ひとりに向けた。後宮で千人の官吏の前に立った時と同じ姿勢だ。だが今は——自分を信じてくれている人々の前に立っている。


「皆さん。まだ辺縁部だけです。中央部の畑は健在です。慌てないでください」


「でも——辺縁部がこうなら、中央部も——」


「中央部は大丈夫です。私と翠微が地養で守ります。辺縁部は——」


 言葉が詰まった。


 辺縁部は、守れない。霊脈がほぼ枯渇している場所では、地養術は無力だ。


「辺縁部の畑は——一時的に放棄し、中央部に集中します。人員も物資も、中央部に集める」


「放棄——」


 農夫が絶句した。


「辺縁部の畑は、我が家の——先祖代々の——」


「わかっています。放棄は一時的なものです。手立てが見つかれば——」


(手立てが見つかれば。——見つかるのか?)


 一人残った麗華は、枯れた畑の端に腰を下ろした。風が止み、灰色の大地に沈黙が降りた。空は曇天で、太陽の位置すらわからない。この畑で、つい一年前には蕪が実り、大根が太り、冬小麦が金色に輝いていた。その全てが灰色に変わった。麗華は膝を抱えた。後宮にいた三年間、どんな窮地でも膝を抱えたことはなかった。帝都を兵糧攻めにした時も、廃妃の宣告を受けた時も、背筋を伸ばしていた。だが今——大地が死ぬことの前では、人間の策略など何の意味もない。指先に残ったのは、乾いた粉と微かな青草の残り香だけだった。かつてはこの穂が黄金色に実り、米俵になり、兵の粥になり、外交の切り札になった。



 麗華は言葉を続けた。声が震えないように、腹に力を入れた。


「今は、守れるものを守ることが最優先です。中央部の畑さえ健在なら、鳳凰領は生きていける。だからお願いです。中央部に移ってください」


 風が止んだ。辺縁部の畑に沈黙が降りた。かつてここに響いていた音——穂が風に揺れるさわさわという音、鳥の声、虫の羽音——その全てが消えていた。聞こえるのは領民のざわめきだけだ。人間の声だけが、この死んだ土地の上で生きている。


 領民が渋々ながら頷いた。信頼されているのは、麗華がこれまで食糧を守り続けてきたからだ。「鳳様がいれば大丈夫」——その言葉が、今は千斤の重さで麗華の肩にのしかかっている。


 領民が去った後、麗華は一人で枯れた畑に残った。


 風が吹いた。茶色の穂が折れて、地面に落ちた。乾いた音がした。小さな音だが——麗華の耳には、何かが崩壊する音に聞こえた。


(鳳凰領に——荒地化が来た)


 認めたくなかった。だが目の前の現実が、認めざるを得なくさせた。


 辺縁部は枯れた。次は中央部と外縁部の境界が危うくなる。その次は——中央部そのものが。


 麗華は枯れた穂を拾い上げた。乾いた穂が、手の中で砕けた。粉になった穂が指の間からこぼれ落ちる。風がそれを攫い、灰色の大地へと運んでいく。指先に残ったのは、乾いた粉と微かな青草の残り香だけだった。かつてはこの穂が黄金色に実り、米俵になり、兵の粥になり、外交の切り札になった。その全てが——粉になって風に消えた。


(この穂は——もう誰の腹も満たせない)


 食糧を武器にしてきた女の手の中で、食糧が砕けていく。指の間に残った粉を見つめた。灰色の粉だ。この粉が、かつては黄金色の穂だった。鳳凰領の力の象徴だった。帝都を揺さぶり、外交を制し、戦を止めた力の源だった。


 その皮肉に——笑えなかった。

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