揺れる心
翌朝から、麗華の集中力が乱れた。
帳面を開いても、暁風の言葉が頭から離れない。
「あんたのそばに——自分の意志でいたい」
(やめなさい。帳面を見なさい。数字を数えなさい。備蓄は四十パーセント。来春までの不足分は——)
数字が頭に入らない。同じ行を三度読み返して、まだ中身が頭に残らない。「百二十俵」の「百二十」が「暁風」に見える——そんなはずはないのだが。
墨で書かれた帳面の数字が、一行ずつ泳いでいる。後宮にいた三年間、どんな帳簿も一読で頭に入った。宰相が仕掛けた帳面の改竄さえ一目で見抜いた。それなのに今朝は、たった一行の数字すら頭に残らない。
「お嬢様」
春蘭が茶を置いた。湯気が立ち上り、茶の香りが鼻をくすぐった。鳳凰領の山茶だ。一煎目の、青い香りが立つ茶。湯呑みの表面に茶の色が揺れ、薄い翡翠色が光を受けている。
「何かありましたか?」
「何もありません」
「そうですか。では——お顔が赤いのは」
「赤くありません」
「赤いです。朝から、ずっと」
麗華は帳面で顔を隠した。帳面の端が微かに震えている。
「光の加減です」
「朝からずっと光の加減が変わらないのですか。曇りですが」
「春蘭」
「はい」
「黙ってください」
春蘭がにこりと笑った。この侍女は、主人の異変に気づかないふりをするのが下手だ。いや——気づかないふりをする気がないのだ。
茶を飲んだ。熱い。舌を焼く痛みで、少しだけ頭が冴えた。湯呑みの表面に指紋が残り、薄い翡翠色の液面が揺れている。茶の苦みが口の中に広がり、暁風の声の残響を一瞬だけ遠ざける。だが苦みの奥に、山茶特有の甘みが追いかけてきて——暁風が「旨い」と言った、あの声を思い出してしまった。
(国難の最中だと言った。今は考える余裕がないと。——それは本当だ。蔵の備蓄は減り、外縁部の畑は衰え、荒地化の影が迫っている。恋だの何だの考えている場合ではない)
(恋——と、認めてしまった)
帳面が手から滑り落ちた。床に落ちる音が、静かな執務室に響いた。帳面の角が板張りの床を叩き、紙が開いて数字の頁が天井を向いた。麗華は腰をかがめて拾い上げ、表紙の埃を払い、深呼吸した。墨の匂いと紙の匂いが鼻に馴染む。この匂いに意識を繋ぎとめる。
「春蘭。外縁部の報告書をください」
「はい。こちらです」
報告書に目を通した。外縁部の作物の育ちが悪化している。翠微が地養を頑張っているが、効果が薄い。霊脈の応答が鈍い。数字が並んでいる。収穫予測が下方修正されている。冬小麦の穂の重量が前年比で七割。蕪と大根の肥大が遅れ、出荷時期を後ろ倒しにせざるを得ない。
(こっちのほうが、よほど深刻だ。暁風殿の言葉に動揺している場合ではない)
理性で感情を押さえつけた。いつもの手法だ。後宮で身につけた処世術。感情を冷静さの下に沈め、合理で動く。
だが——
「お嬢様」
「何ですか」
「恋する女性は、食が進むか、食べられなくなるかのどちらかだそうです。どちらも体に出ますから、隠せませんのよ」
「春蘭」
「今朝の朝食、お嬢様はいつもの倍召し上がりましたよ。お粥をおかわりされて。二杯目は味噌を足して召し上がりましたね。鳳凰領の白味噌を小さじ一杯。いつもは塩だけで召し上がるのに」
「……気のせいです」
「二杯目の粥をおかわりされたのは、鳳凰領に帰ってから初めてです。粥に白味噌を入れると、甘みが増して柔らかい味になります。白味噌の麹の香りが、米の甘みを包み込むように引き立てるのです。お嬢様がその食べ方を好まれるのは、心が温もりを求めている時だと——」
春蘭は茶を注ぎ足しながら、さりげなく漬物の小皿を卓に置いた。蕪の糠漬けだ。朝一番に糠床から出した、一番味の良い漬けもの。麗華は気づかないふりをしたが、箸を伸ばして一切れ齧った。酸味と塩気が口の中に広がり、粥を食べた後の舌をさっぱりさせる。この漬物の味は変わらない。鳳凰領の糠床が健在な限り、この味は守られる。漬物を噛みながら、帳面の数字に意識を戻そうとした。だが暁風の声が耳の奥でまだ響いている。「あんたのそばに——自分の意志でいたい」。その声が、蕪の酸味よりも鮮やかに舌の上に残っている。
「春蘭。今はそういう話をしている場合では——」
「では、いつするのですか」
麗華は口を閉じた。
春蘭が微笑んだ。穏やかな、しかし容赦のない笑みだ。
「今は国難の最中です。それは確かです。でもお嬢様——国難が終わる日は来るのでしょうか。終わらない国難の中で、いつまでも後回しにしていたら——」
「わかっています」
麗華は茶を飲み干した。渋みが喉を焼き、目が覚める。茶殻が碗の底で揺れている。
「わかっています。でも——今は」
(今は——怖いのだ。認めてしまったら、暁風殿のことしか考えられなくなりそうで。それが——怖い。後宮で三年間、感情を殺して生きてきた。廃妃の夜も泣かなかった。それなのに——あの人のことを考えると、感情が制御できなくなる。それが、怖い)
窓の外で、鳩が一羽飛び立った。羽ばたきの音が遠ざかり、静寂が戻る。
窓の外で鳩がもう一羽飛び立った。二羽の影が曇天の灰色に溶けていく。風が木枠を揺らし、帳面の端をぱたぱたと叩いた。
翠微からの緊急の報告が入ったのは、その直後だった。
「師匠。辺縁部の畑に——異変があります」
恋の話は、また後回しになった。
(——正直に言えば。少しだけ、助かった)
卓の上の漬物をもう一切れ齧った。蕪の酸味が、甘い動揺を引き締める。この味がある限り、頭は動く。
麗華は帳面を手に取り、翠微の報告を聞く姿勢に戻った。頬の熱はまだ引いていなかったが、それを知っているのは春蘭だけだ。




