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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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俺の意志で

 暁風が麗華を呼び止めたのは、夕暮れの中庭だった。


「麗華」


 名前で呼んだ。二度目だ。その二文字を口にする時、暁風の声はいつもより低くなる。自分でも気づいているのかいないのか——おそらく、気づいていない。この男は自分の声の変化に無頓着だ。


 麗華が足を止めて振り返った。夕日が横から差し込み、琥珀色の瞳が金色に輝いた。風が髪を攫い、銀の簪がきらりと光る。廃妃の後はこの簪一本で髪を纏めている。後宮の金の鳳凰簪も翡翠の髪飾りも置いてきた——けれどこの銀の簪のほうが、鳳凰領の風景には似合っていた。


「はい」


 暁風が歩み寄った。二人の間に三歩の距離。それ以上は詰められなかった。足が勝手に止まる。ここから先は——一歩踏み出せば、もう戻れない場所だ。


「話がある」


「何でしょう」


 暁風は腕を組んだ。考え事をする時の癖だ。そして——腕をほどいた。腕を組んでいては、伝わらない。壁を作ったまま伝えられる言葉ではない。


「俺は——自分の意志でここにいる」


 麗華が目を瞬いた。睫毛が夕日の光を受けて影を落とした。


「以前も、そう仰いましたね」


「ああ。だが今は——もう少し、先のことを言いたい」


 暁風の目が真っ直ぐに麗華を見た。いつも真っ直ぐに見る男だが、今夜は特に——逃がさない目をしている。墨色の瞳に、夕日の橙が映っていた。


「皇帝の命令で来た。監視役として。それが最初だ。だが——今の俺は、命令でここにいるんじゃない」


「……」


「戦場で戦った。帰ってきた。蔵の数字を見た。畑を手伝った。農民と酒を飲んだ。——全部、自分の意志だ」


 暁風が一歩、近づいた。足元の砂利が軋んだ。中庭の隅に植えられた木槿むくげが夕風に揺れ、花弁が一枚、二人の間に落ちた。薄紅色の花弁が砂利の上に薄く沈んだ。


「俺は——将軍だ。皇帝への忠義も捨てていない。だが、俺が今一番守りたいのは——」


 言葉が途切れた。暁風は言葉を探しているようだった。感情を言葉にするのが苦手な男だ。口を開き、閉じ、また開く。顎の筋肉が強張り、こめかみの血管が微かに浮いている。


「——ここだ。この土地。この人たち。そして——」


 もう一歩。二人の間は一歩になった。手を伸ばせば届く距離。暁風の体温が、夕暮れの冷気を通してかすかに届く。


「あんたのそばに——自分の意志でいたい。命令でも任務でもなく」


 麗華の目が一瞬、揺れた。


 琥珀色の瞳の奥に——何かが揺れている。感情の波紋だ。冷静さの水面が、一つの石で乱れている。


「それは……どういう意味ですか」


 声が、わずかに震えていた。いつもの冷静な麗華の声とは違う。後宮で鍛えた仮面の、ほんの一片が剥がれた声。


「言葉通りだ」


 暁風はそれ以上言わなかった。言えなかった。これ以上の言葉は、今の自分には見つからない。


 沈黙が落ちた。


 夕暮れの風が二人の間を吹き抜けた。麗華の黒髪が揺れ、銀の簪が光を弾いた。風が運ぶ畑の匂い——土と青草と、かすかな花の香りが、二人の間に漂った。中庭の向こうに見える畑では、夕日を浴びた穂が金色に揺れている。


「……暁風殿」


「ああ」


「今は——国難の最中です。私も、あなたも、やるべきことが山ほどある」


「わかっている」


「だから——」


 麗華が一歩、下がった。距離を取った。後退した足が砂利を鳴らした。


「——今は、その言葉の意味を考える余裕がありません」


 暁風が頷いた。拒絶されたとは思わなかった。「今は」と言った。「今は」だ。「永遠に」ではない。


「待つ」


「え?」


「待つ。いつまでも。——俺は、待てる男だ」


 蒸し魚は生姜の辛みと鯉の淡白な甘みが絶妙に調和していた。蒸したことで身の水分が保たれ、箸で触れると繊維に沿ってほろりと崩れる。葱の緑が魚の白い身に鮮やかな彩りを添え、皿の中に鳳凰領の清流が凝縮されているようだった。翠微が得意げに「葱は今朝摘んだんです」と言った。朝一番の葱は香りが強い。それを知っている翠微の腕前に、麗華は心の中で感心した。



 暁風が踵を返した。


「飯の時間だろう。行くぞ」


 何事もなかったかのように歩き出す暁風の背中を、麗華はしばらく見つめていた。大きな背中だ。鉄紺ではなく灰白の麻袍を着た、日常の背中。だがその背中に——戦場と同じ覚悟が宿っている。


(あの人は——自分の意志でここにいると言った。私のそばにいたいと。命令でも任務でもなく)


 頬が熱い。心臓が跳ねている。後宮で培った制御が、今夜に限って効かない。


(今は——と言った。今は考える余裕がないと。でも「今は」は——「いつか」を含んでいる。私は「いつか」を約束してしまったのか)


 麗華は自分の頬に手を当てた。熱い。


(——馬鹿。何を赤くなっているの。国難の最中だと言ったのは自分でしょう)


 自分を叱りつけて、食堂に向かった。


 暁風の背中が、夕闇の中に見えた。その背中を追いかける自分の足が——いつもより少しだけ、速かった。


 食堂には翠微がいた。夕餉の準備を手伝っていたらしく、袖を肘まで捲り上げている。


「あ、先生。暁風さん。今日は蒸し魚ですよ。鳳凰領の川で採れた鯉を、生姜と葱で蒸したんです」


 翠微の声が、日常を取り戻させてくれる。麗華は微笑んで席についた。蒸し魚の湯気が立ちのぼり、生姜の香りが鼻をくすぐった。鯉の白い身が透き通るように艶やかで、葱の緑が鮮やかに散っている。


 暁風が隣に座った。何事もなかったかのように箸を取り、蒸し魚を一口食べた。箸が一瞬止まった。


「……旨いな」


 麗華は魚を口に運んだ。生姜の辛みと鯉の甘みが舌の上で溶け合い、鳳凰領の清流の味がした。


(——美味しい。美味しいのに、なぜか胸が苦しい)


 箸を持つ手が、まだ微かに震えていた。

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