帰還報告
暁風は机に向かっていた。
皇帝への戦後報告を書いている。公式な書式に従い、簡潔に事実を記す。筆は使い慣れたものだが、今日は妙に重く感じた。穂先が紙に触れるたびに、墨が滲んで文字が太くなる。
「臣、陸暁風。北辺における越境軍の撃退及び停戦について、以下の通り報告する」
戦闘の経過。味方の損害。敵の動向。停戦の条件。——全て定型に沿って書いた。字は大きく、不器用で、しかし一画一画に迷いがない。それがいつもの暁風の筆跡だ。
報告書の末尾に署名を入れようとして、筆が止まった。
「臣は皇帝陛下のために戦い——」
その一文を書こうとした手が、動かなかった。墨が穂先に溜まり、一滴が紙に落ちかけている。黒い滴が紙の繊維に吸われ、じわりと丸い染みを作った。
(本当にそうか)
暁風は筆を置いた。穂先が墨皿に触れ、黒い波紋が広がった。墨の匂いが鼻先に立ち、帝都の翰林院を思い出させた。あそこでは官僚たちが一日中筆を動かしていた。何を書いていたのか——形だけの報告書と、実のない献策だ。暁風は文書が苦手だった。書くべきことと書けることが一致しない。
(俺は——誰のために戦った?)
皇帝の命令で前線に出たわけではない。朝廷の正式な出征命令を待たずに、自分の判断で動いた。鳳凰領の防衛のために。
(皇帝陛下のためではなかった。鳳凰領を——麗華を守るために戦った)
その認識が、暁風の胸に重くのしかかった。
忠義。将軍としての忠義。皇帝への忠義。それが暁風の人格の根幹だったはずだ。幼い頃から叩き込まれた武人の矜持。主君に仕え、命を懸ける。それが暁風の全てだった。
だが——
「陛下のために戦った」と書くことが、嘘になる。嘘が書けない男だ。暁風は。嘘を書けば、この報告書は——自分自身への裏切りになる。
暁風は筆を持ったまま、窓の外を見た。夕暮れの鳳凰領が見える。畑で農夫たちが最後の作業をしている。遠くで翠微が畑に膝をついているのが見えた。地養術の翡翠色の光が、夕日の中でほのかに輝いている。
窓の外から夕餉の支度の匂いが届いた。味噌を溶く湯気の柔らかい香りだ。鳳凰領の夕暮れは、いつもこの匂いに包まれる。帝都の宮城にはなかった匂い。ここにしかない匂い。暁風は鼻の奥でその匂いを噛みしめた。
報告書を破った。紙が裂ける音が、静かな部屋に響いた。破れた紙片が卓の上に散らばり、定型文の文字が断片になって崩れた。墨の匂いが微かに漂った。
新しい紙を広げ、書き直した。
「臣、陸暁風。北辺における越境軍の撃退について報告する。臣は鳳凰領の防衛のため、朝廷の命令を待たず出征した。この判断は臣の独断であり、その責任は全て臣が負う」
正直に書いた。嘘をつかなかった。
署名を入れ、封をした。蝋で封印を押す。皇帝に届く書簡の体裁だ。蝋が固まる間、暁風は封蝋の紋章を見つめた。禁軍の雲雷紋。皇帝の将軍であることの証だ。
飛脚に渡す前に、もう一度読み返した。
(この報告を読んだ陛下は——どう思うだろう。将軍が朝廷の命令なしに動いた。それは忠義に反する。下手をすれば——将軍の位を剥奪されてもおかしくない)
(だが——嘘は書けない。俺は嘘がつけない男だ。それだけは変わらない。皇帝の前でも、麗華の前でも、誰の前でも)
報告書を飛脚に託した。
部屋に戻り、冷めた茶を啜った。渋い。舌が痺れるような渋みだ。茶葉を入れたまま放置しすぎたのだろう。苦みが口の中に広がり、なかなか消えない。舌の奥に張りつくような渋みは、まるで自分の選択の重さのようだった。
窓の外の夕餉の匂いが、一層強くなった。味噌汁の匂いに加えて、焼き魚の香ばしさが混じっている。誰かが川魚を塩焼きにしているのだろう。皮が焦げる匂いと、脂が滴る音が想像できる。鳳凰領の川魚は身が締まって旨い。塩を振って炭火で焼けば、皮はぱりっと香ばしく、身はふわりと柔らかい。この匂いの中で暮らすことが、暁風にとっての「帰る場所」になっていた。帝都の宮城には、こんな匂いはなかった。あちらは香料と酒の匂いが支配していた。こちらは——食そのものの匂いだ。味噌と米と、大地の恵みの匂い。
(麗華が淹れた茶のほうが旨かった)
ふと、そう思った。
麗華の茶は、渋みの中に甘みが残る。火入れの加減を心得ていて、湯の温度も茶葉の量も正確に計っている。あの女は食に関するすべてのことに正確だ。茶一杯にすら手を抜かない。
茶の味すら——麗華を基準にしている自分がいる。
(俺は、いつからこうなった。食事の味を麗華の手料理と比べ、茶の味を麗華の茶と比べ——帰る場所を「鳳凰領」と感じるようになった。帝都の宮城ではなく。禁軍の兵営ではなく。——ここが、帰る場所だ)
窓の外を見た。暮れなずむ鳳凰領の景色。畑の緑と、遠くに見える屋敷の灯り。厨房から漂ってくる夕餉の匂い。誰かが味噌汁を作っている。大豆の発酵した温かい匂いが、夕暮れの風に乗って窓から入ってくる。煮干しの出汁と白味噌が混じった柔らかい香りだ。鳳凰領の夕餉の匂い。
味噌汁の匂いが強くなった。この匂いが——暁風が守りたいものだ。帝都の宮城の匂いではなく、鳳凰領の厨房の匂い。味噌汁を作る音。漬物を切る包丁の音。「ごはんですよ」と声をかける領民の女の声。
(ここが——俺の場所だ。皇帝の禁軍ではなく、帝都の宮城ではなく。ここが、俺の居場所だ)
認めるべきことを、暁風はゆっくりと認め始めていた。
忠義の対象が、変わりつつあることを。
冷めた茶を飲み干した。渋みが舌に残り、味噌汁の匂いがそれを洗い流した。二つの味が入れ替わる瞬間に、暁風は思った。この味噌汁の匂いの中に帰りたい。それが正直な気持ちだ。
それが裏切りなのか、成長なのかは——まだわからなかった。




