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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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暁風の傷

 暁風の左腕の傷は、治りが遅かった。


 戦場で受けた刀傷は塞がったが、動かすと痛みが走る。包帯は外せたものの、腕を伸ばしきれない日がある。傷跡が引きつれて、剣を振る時に支障が出る。


 それでも暁風は毎朝、中庭で剣の素振りをしていた。


 左腕をかばって右手だけで剣を振る。動きに以前のキレがない。自分でもわかっている。風を切る音が鈍い。いつもなら一振りで空気が悲鳴を上げるのに、今は風が逃げていく感じだ。左腕を添えようとするたびに、刃のような痛みが肘から肩に走る。


「将軍殿、無理をされては」


 護衛の兵が心配そうに声をかけた。


「無理じゃない。動かさなければ鈍る」


 麗華がそれを見たのは、畑への朝の巡回の途中だった。


 中庭に立ち寄る予定はなかったが、剣の風切り音が聞こえて足を止めた。


 暁風が左腕を押さえながら、右手で素振りを繰り返している。額に汗が滲んでいる。朝の冷気の中で白い息を吐きながら、一振り、また一振りと剣を振り続ける。無表情だが、痛みを堪えているのは明らかだ。左腕に力を入れるたびに、一瞬だけ眉間に皺が寄る。それを隠そうとして、次の一振りを大きくする。誤魔化し方まで不器用な男だと、麗華は思った。


 麗華は中庭に入らず、その場を離れた。見ていることを知られたくなかった。


 厨房に向かった。


「春蘭。滋養のつく食材を出してください。鶏の胸肉、なつめ枸杞くこの実、生姜」


「薬膳ですか」


「ええ。傷の回復を早めるものを」


 昼過ぎに薬膳が仕上がった。鶏と棗と枸杞の煮込み。生姜が体を温め、棗が血を養い、枸杞が精をつける。鍋の蓋を開けると、生姜と棗の甘い香りが湯気と共に立ち上った。鶏肉は骨から外れるほど柔らかく煮えている。出汁は澄んだ金色で、棗の赤と枸杞の橙が沈んで色彩を添えていた。口にすればまず生姜の温かい辛みが舌先に触れ、次いで棗の素朴な甘みが広がり、最後に鶏の旨味がすべてをまとめ上げる——そういう味に仕立てた。鶏の胸肉は繊維に沿って裂けるように柔らかく、噛むと淡白な甘みの後から出汁の旨味が追いかけてくる。


 暁風の部屋を訪ねた。


「暁風殿。食事をお持ちしました」


「わざわざか。蔵の余裕がないのに——」


「傷が治らなければ困ります。黙って食べてください」


 暁風が渋々座った。薬膳の椀から湯気が立ち上り、部屋に鶏と棗の甘い香りが広がった。枸杞の橙色が煮汁の表面に浮かび、見た目にも温かい。


「……旨い」


「薬膳です。傷の回復を早めます。鶏は血を養い、棗は気を補い、枸杞は精をつけ、生姜は巡りを助ける。毎日出しますから」


「毎日は——」


「毎日です」


 暁風が口を閉じた。麗華に逆らえないことを、もう知っている。


「腕を見せてください」


「もう塞がっている」


「見せてください」


 暁風が観念して袖をまくった。傷跡が赤く残っている。完全には治っていない。肉が盛り上がり、周囲の皮膚がまだ熱を持っていた。


「まだ赤いですね。動かすと痛むでしょう」


「少しだけだ」


「嘘はやめてください。朝、素振りをしていたのを見ました。左腕をかばっていたでしょう」


 暁風が目を逸らした。見ていたのか、という顔だ。耳の先が赤くなっている。


「薬を塗ります」


 麗華が薬壺を取り出した。蓋を開けると、薬草の清涼な匂いが広がった。紫根と当帰を練り込んだ軟膏だ。暁風の腕に薬を塗る。指先が傷跡に触れた。


 暁風が薬膳を食べ終えた後、麗華は椀を下げながら部屋を見回した。暁風の部屋は質素だ。剣が壁に掛かり、鎧が隅に畳まれている。卓の上には筆と硯。窓辺に小さな茶碗が一つ——暁風が自分で茶を淹れて飲んでいるらしい。茶葉の缶を見ると、鳳凰領の山茶だ。麗華が蔵から分けたものと同じ茶葉。この男は、一人でも鳳凰領の茶を飲んでいるのだ。その事実が、妙に胸を温めた。食で体を治す——それは麗華の信条だ。薬も食も根は同じ。体に入れるもので人は生きる。



 二人とも黙った。薬草の匂いが部屋に漂っている。清涼な、だが温かみのある匂い。傷の修復を助け、血行を促す処方だ。


 麗華の指は細く、白い。暁風の腕は太く、日に焼けている。その対比が、妙に鮮やかだった。白い指が赤い傷跡をなぞると、暁風の肌が微かに震えた。肌の下で筋肉が反射的に引き締まり、すぐに力を抜いた。


「……痛みますか」


「いや」


 嘘だ。薬が沁みているはずだ。だが暁風は微動だにしなかった。麗華の指が腕の上を動くのを、息を殺して感じている。


 包帯を巻き直しながら、麗華は暁風の手の温もりを感じていた。戦場から帰ってきた手。人を守るために剣を振った手。大きくて、硬くて、温かい手。


(この手が——守ってくれた。前線で、兵を率いて、傷を負いながら)


「ありがとうございます」


 暁風が呟いた。薬膳にか、薬にか、それとも——


「早く治してくださいね」


「ああ」


 麗華が去った後、暁風は薬膳の残りを食べた。温かい。体の芯が温まる。棗の甘みが口の中に残り、いつまでも消えなかった。枸杞の実を舌の上で転がすと、ほのかな苦みの後に甘みが広がる。生姜の辛みが喉を温め、食べ終わる頃には指先にまで温もりが行き渡っていた。


 椀の底に溜まった煮汁を最後まで啜った。棗の甘みと生姜の辛みが混じり合った煮汁は、薬膳というよりもう一つの料理だ。枸杞の実が一粒、唇に触れた。舌で転がすと、甘みとほのかな苦みが広がる。この一粒に、麗華の気遣いが凝縮されている。


 窓の外では、夕暮れの光が鳳凰領の畑を橙色に染めていた。


 穏やかな時間だ。戦の後の、束の間の。


 暁風は薬を塗られた左腕を見つめた。包帯の上から、麗華の指の温もりがまだ残っているような気がした。

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