麗華の地養
備蓄の回復には、地養術に頼るしかなかった。
麗華は朝から畑に出た。中央部の主力圃場。冬小麦の青い穂が風に揺れている。朝露が穂先に宿り、朝日を受けて小さな宝石のように輝いていた。露の一粒一粒が光を屈折させ、虹色の帯がかすかに見える。空は秋の澄んだ青で、刷毛で引いたような白い雲が高く流れていた。
膝をつき、土に両手を当てた。目を閉じる。意識を大地の奥に沈め、霊脈を探す。
——ある。霊脈の流れが感じられる。脈動が指先に伝わってくる。力強い鼓動。大地の心臓が動いている。
地養術を行使した。淡緑色の光が指先から土に流れ込み、冬小麦の根に力を注ぐ。根が光を吸い、茎がわずかに伸び、穂が膨らむ。手のひらの下で命が動くのを感じる。
(大丈夫。中央部はまだ大丈夫)
手のひらの下で、土の温もりが脈打っている。指先を伝う霊脈の力は、赤子の心音に似ていた。規則正しく、力強く、命の証が指先に届く。この感触がある限り、鳳凰領は生きている。
一区画を終え、次に移った。二区画目も順調だ。三区画目が終わる頃には、額に汗が浮かんでいた。髪の生え際から一筋の汗が頬を伝い、顎先から地面に落ちた。膝の下の土が体温で温まり、微かに湿った匂いを放っている。腐葉土の甘い香りが鼻をかすめ、土の中に生きている微生物の気配が掌を通して伝わってきた。
額の汗を袖で拭い、空を見上げた。秋の空は高く、鳶が一羽、緩やかな弧を描いて飛んでいる。遠くで農夫が畝に水を引いている姿が見えた。水路の水が光を受けてきらめき、冬小麦の根元に吸い込まれていく。日常の光景だ。この日常が——いつまで続くのか。
四区画目。手を当てた。
「……ん」
違和感があった。
霊脈の応答が、三区画目より弱い。力を注いでいるのに、返ってくる感触が鈍い。スプーンで水をすくうような——力が通り抜けていく感覚。
(疲れているだけかもしれない)
もう少し力を込めた。霊脈に、もう一段深く語りかける。
応答が返ってきた。だが——やはり弱い。三区画目では十の力を注いで十が返ってきたのに、ここでは十を注いで七しか返らない。三割が土の中に消えている。吸い込まれるのではなく——通り過ぎていく。
(気のせいだ。私が疲れているから、感覚が鈍っているだけ)
五区画目に移った。ここは中央部と外縁部の境界に近い。
手を当てた瞬間、指先に微かな「震え」が走った。
地面が震えたのではない。霊脈が——震えた。
鼓動のリズムが乱れたような、微かな揺れ。心臓が一拍飛ぶような不整脈。すぐに消えたが、麗華の感覚は確かに捉えた。指先の皮膚が粟立つような、異質な感触。
「……」
麗華は手を離し、土を見つめた。
見た目は変わらない。茶色い土に、緑の穂が揺れている。いつもの鳳凰領の畑だ。蚯蚓が土の表面を這い、虫の羽音が聞こえる。生きている畑の音だ。
だが——麗華の掌には、あの震えの記憶が焼きついていた。百年前の霊脈震は、こうした微かな前兆から始まったのだろうか。祖父から聞いた話では、震の前には大地が「溜息をつく」のだという。今感じたものは、大地の溜息だったのか。
だが——手のひらに残った感触が、嫌な記憶を呼び起こす。
(この震え。前に感じたことがある。外縁部で翠微が異変を報告した時——私も似たものを感じた)
立ち上がった。
畑の土を手に取り、顔の近くに持っていった。匂いを嗅ぐ。
(……いつもと違う)
鳳凰領の土は、良い匂いがする。微生物が活発で、有機物が豊富な土の匂い。湿った土の甘い香り。腐葉土の温かみと、微かな青草の残り香が混じった——生きている土の匂い。
だが今の土は——少しだけ、乾いた匂いがした。砂に近い匂い。命の薄い匂い。指の間で擦ると、いつもより粒子が粗い気がした。しっとりと指に吸いつくはずの感触が、わずかにさらさらとしている。
畑から戻った麗華は、手を洗い、爪の間に残った土を丁寧に落とした。地養の後の手は、いつもうっすらと緑がかった光の名残りが残る。今日はその光が薄い。力が十分に通っていない証だ。手のひらを開いて見つめた。白い手だ。後宮にいた頃は、この手で帳面をめくり、筆を持ち、茶を淹れた。鳳凰領に帰ってからは、この手で土に触れ、霊脈に語りかけ、穀物を育てた。今、この手にできることは——まだある。まだ地養は効く。中央部は生きている。だが四区画目の霊脈の鈍さが、脳裏にこびりついて離れない。隣の区画では翠微が朝から地養を続けていた。翡翠色の光が揺れ、土を照らしている。翠微の光は麗華のそれより深い色をしている。青みを帯びた翡翠色——あの色の意味を、いつか解き明かさなければならない。
(気のせいだ)
麗華は土を落とし、手を払った。
(気のせいだ。——そう思いたい)
麗華は畑の端に座り込んだ。膝が震えている。地養術の消耗だけではない。不安が体の芯を蝕んでいる。隣の区画では翠微が朝から地養を続けていた。翡翠色の光が揺れ、土を照らしている。翠微の光は麗華のそれより深い色をしている。
執務室に戻り、地養術の記録帳を開いた。過去半年の地養の効果を数値で確認する。収穫量。成長速度。消費した霊力。
中央部は安定している。数字上は問題ない。だが——数字には出ない「感覚」がある。霊脈の応答の鈍さ。土の匂いの変化。数字が拾えない異変が、五感の端にかかっている。
(翠微は外縁部で異変を感じていた。私は今日、中央部と外縁部の境界で——霊脈の震えを感じた)
(これが何を意味するのか。——まだ、わからない)
帳面を閉じた。
窓の外の畑は緑だ。まだ緑だ。
その緑が、少しだけ色褪せて見えたのは——きっと、夕日の加減だろう。畑の向こうで翠微の翡翠色の光が小さく揺れていた。
そう思うことにした。




