遊牧民の理由
和平後、北の遊牧国家から情報が流れてきた。
穏健派の族長ボルジギンが、食糧の返礼として情報を寄越したのだ。草原の民にとって、情報は塩と同じくらい貴重な贈り物だ。
「北の草原の半分以上が荒地と化した。家畜が倒れ、牧草が枯れ、水場が干上がった。——これが、強硬派を生んだ原因だ」
暁風が書簡を読み上げた。麗華と春蘭が聞いている。執務室に重い空気が漂った。蝋燭の炎が一つだけ灯り、三人の顔に深い影を落としている。
「遊牧民は草原が命だ。草が育たなければ家畜が死に、家畜が死ねば乳も肉も取れない。移動すれば済む話だった——かつては。だが今は、どこに移動しても草がない」
暁風の声が重かった。書簡を読む目が、文字の奥にある現実を見つめている。
「俺が戦った相手は、飢えた民だった」
「ええ。侵攻は略奪ではなく、生存のための南下だった。——外交会議の時から、そう分析していました」
「分析していたが——実際に戦ってみると、重さが違う。あの捕虜の目を見た後では——」
暁風が腕を組んだ。傷跡のある左腕を右腕で庇うように重ねる。
「捕虜の一人が言っていた。『食糧が届かない部族がいる。穏健派が独り占めしている』と。——和平の合意が、全ての民に恩恵を届けていなかった」
「穏健派の内部にも、格差があった」
「ああ。食糧を受け取った部族と、受け取れなかった部族。その差が、強硬派を生んだ」
麗華は窓の外を見た。鳳凰領の畑が広がっている。緑の中に、人々が働く小さな影が見える。
(食糧を送れば和平ができる。だが食糧の配分に偏りがあれば、また争いが起きる。——食は、配り方を間違えれば新たな争いの種になる)
北の情報はさらに続いた。
「遊牧民の食文化が崩壊しつつある。馬乳酒が作れない。乾燥肉が作れない。子供が白い飯を知らない。——百年かけて、食の記憶が消えている」
暁風が苦い顔をした。
「俺が穏健派の将と飲んだ馬乳酒は——あれが、最後の一樽だったかもしれない」
「馬乳酒の味を覚えていますか」
「ああ。酸っぱくて、少し甘い。妙な味だったが——不味くはなかった。むしろ、あの場で飲んだからこそ旨かった。停戦の後、雪を踏みながら。口に含むと泡が弾けて、乳の脂が舌に残って。あの将と二人で、黙って飲んだ。木椀に注いだ白い液体が、雪よりも白く見えた。あの酒の酸味は、草原の風土がなければ生まれない。馬がいて、草原があって、風が吹いて、乳が発酵して——その全てが一杯の酒に凝縮されていた」
「その味が消えるということです。草原が荒地になれば、馬が飼えない。馬がいなければ馬乳が取れない。馬乳がなければ馬乳酒は作れない。——食の消滅は、文化の消滅です」
麗華は帳面に書き留めた。筆が紙の上を走る音が、沈黙の中で響いた。
執務室の窓から、遠く鳳凰領の畑が見えた。曇天の下で冬小麦の緑が沈んだ色をしている。風が木枠を揺らし、冷たい空気が頬を撫でた。部屋の隅で火鉢の炭がぱちりと弾け、小さな火の粉が舞った。
春蘭が茶を注いだ。三人がそれぞれ椀を手に取り、一口飲んだ。鳳凰領の茶は、今日も香り高い。青い茶葉の清涼な風味が口に広がり、ほのかな甘みが舌の奥に残る。だがこの味も——大地の力が衰えれば、薄くなるのだろう。
茶碗の底を見つめた。茶殻が沈み、薄い翡翠色の液が残っている。この色も味も、大地の力があればこそだ。大地が死ねば、茶の色も味も消える。商人が「どこへ行っても飯が不味くなった」と言った言葉が、耳に残って離れない。
「荒地化を止めなければ、戦争は何度でも起きる。北辺の戦いはその前兆に過ぎません。食糧が減れば人は争う。それは——鳳凰領の中でも起こり得ること」
「根本的な解決が必要だということか」
「はい。食糧で外交をし、食糧で戦を止めた。でもそれは対症療法。荒地化が続けば、食糧そのものが作れなくなる。鳳凰領の地養術でさえ——」
言いかけて、止まった。唇を閉じ、視線を逸らした。
暁風が馬乳酒の味を語る声は、いつもの簡潔さとは違った。言葉を探しながら、一つ一つの味の記憶を丁寧に取り出している。酸味。甘み。泡の弾ける感触。乳脂のまろやかさ。木椀の手触り。雪を踏む足音。それら全てが一杯の酒に凝縮されていた。麗華は暁風の言葉を聞きながら、帳面に「馬乳酒」と書いた。消えゆく食文化の記録。味の記憶を文字に残すことは難しいが、記録しなければ永遠に失われる。鳳凰領の食もいつか同じ運命を辿るのかもしれない、と思うと筆先が重くなった。この茶の味も——大地の力が衰えれば、薄くなるのだろう。商人の言葉が頭をよぎった。「どこへ行っても飯が不味くなった」——その波が、いつかこの茶にも及ぶのか。
「地養術でさえ、どうした」
「……いいえ。何でもありません」
(まだ確証がない。外縁部の異変は——まだ確かめていない。確証なく不安を口にしても混乱を招くだけ)
暁風が麗華を見た。真っ直ぐな目だ。逸らせない目。この男の前では、嘘が通じない。
「隠しているだろう」
「隠してはいません。——まだ確かめていないだけです」
「確かめたら、教えてくれ」
「……ええ」
暁風が席を立ち、窓辺で空を見上げた。曇天だ。灰色の雲が低く垂れ込め、鳳凰領の畑に影を落としている。馬乳酒の酸味を思い出した。あの一杯に込められた草原の記憶が、もう二度と生まれないかもしれない。
北の草原が枯れた。東の穀倉が潰れた。南の海が枯れた。
次は——どこだ。
窓の外の灰色の空を見つめながら、暁風は椀に残った茶を飲み干した。冷めた茶は苦いだけだった。馬乳酒の酸味も、鳳凰領の茶の甘みも、大地が生きていなければ生まれない味だ。
麗華は答えを知りたくなかった。知っているはずの答えを、認めたくなかった。




