表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
194/268

遊牧民の理由

 和平後、北の遊牧国家から情報が流れてきた。


 穏健派の族長ボルジギンが、食糧の返礼として情報を寄越したのだ。草原の民にとって、情報は塩と同じくらい貴重な贈り物だ。


「北の草原の半分以上が荒地と化した。家畜が倒れ、牧草が枯れ、水場が干上がった。——これが、強硬派を生んだ原因だ」


 暁風が書簡を読み上げた。麗華と春蘭が聞いている。執務室に重い空気が漂った。蝋燭の炎が一つだけ灯り、三人の顔に深い影を落としている。


「遊牧民は草原が命だ。草が育たなければ家畜が死に、家畜が死ねば乳も肉も取れない。移動すれば済む話だった——かつては。だが今は、どこに移動しても草がない」


 暁風の声が重かった。書簡を読む目が、文字の奥にある現実を見つめている。


「俺が戦った相手は、飢えた民だった」


「ええ。侵攻は略奪ではなく、生存のための南下だった。——外交会議の時から、そう分析していました」


「分析していたが——実際に戦ってみると、重さが違う。あの捕虜の目を見た後では——」


 暁風が腕を組んだ。傷跡のある左腕を右腕で庇うように重ねる。


「捕虜の一人が言っていた。『食糧が届かない部族がいる。穏健派が独り占めしている』と。——和平の合意が、全ての民に恩恵を届けていなかった」


「穏健派の内部にも、格差があった」


「ああ。食糧を受け取った部族と、受け取れなかった部族。その差が、強硬派を生んだ」


 麗華は窓の外を見た。鳳凰領の畑が広がっている。緑の中に、人々が働く小さな影が見える。


(食糧を送れば和平ができる。だが食糧の配分に偏りがあれば、また争いが起きる。——食は、配り方を間違えれば新たな争いの種になる)


 北の情報はさらに続いた。


「遊牧民の食文化が崩壊しつつある。馬乳酒が作れない。乾燥肉が作れない。子供が白い飯を知らない。——百年かけて、食の記憶が消えている」


 暁風が苦い顔をした。


「俺が穏健派の将と飲んだ馬乳酒は——あれが、最後の一樽だったかもしれない」


「馬乳酒の味を覚えていますか」


「ああ。酸っぱくて、少し甘い。妙な味だったが——不味くはなかった。むしろ、あの場で飲んだからこそ旨かった。停戦の後、雪を踏みながら。口に含むと泡が弾けて、乳の脂が舌に残って。あの将と二人で、黙って飲んだ。木椀に注いだ白い液体が、雪よりも白く見えた。あの酒の酸味は、草原の風土がなければ生まれない。馬がいて、草原があって、風が吹いて、乳が発酵して——その全てが一杯の酒に凝縮されていた」


「その味が消えるということです。草原が荒地になれば、馬が飼えない。馬がいなければ馬乳が取れない。馬乳がなければ馬乳酒は作れない。——食の消滅は、文化の消滅です」


 麗華は帳面に書き留めた。筆が紙の上を走る音が、沈黙の中で響いた。


 執務室の窓から、遠く鳳凰領の畑が見えた。曇天の下で冬小麦の緑が沈んだ色をしている。風が木枠を揺らし、冷たい空気が頬を撫でた。部屋の隅で火鉢の炭がぱちりと弾け、小さな火の粉が舞った。


 春蘭が茶を注いだ。三人がそれぞれ椀を手に取り、一口飲んだ。鳳凰領の茶は、今日も香り高い。青い茶葉の清涼な風味が口に広がり、ほのかな甘みが舌の奥に残る。だがこの味も——大地の力が衰えれば、薄くなるのだろう。


 茶碗の底を見つめた。茶殻が沈み、薄い翡翠色の液が残っている。この色も味も、大地の力があればこそだ。大地が死ねば、茶の色も味も消える。商人が「どこへ行っても飯が不味くなった」と言った言葉が、耳に残って離れない。


「荒地化を止めなければ、戦争は何度でも起きる。北辺の戦いはその前兆に過ぎません。食糧が減れば人は争う。それは——鳳凰領の中でも起こり得ること」


「根本的な解決が必要だということか」


「はい。食糧で外交をし、食糧で戦を止めた。でもそれは対症療法。荒地化が続けば、食糧そのものが作れなくなる。鳳凰領の地養術でさえ——」


 言いかけて、止まった。唇を閉じ、視線を逸らした。


 暁風が馬乳酒の味を語る声は、いつもの簡潔さとは違った。言葉を探しながら、一つ一つの味の記憶を丁寧に取り出している。酸味。甘み。泡の弾ける感触。乳脂のまろやかさ。木椀の手触り。雪を踏む足音。それら全てが一杯の酒に凝縮されていた。麗華は暁風の言葉を聞きながら、帳面に「馬乳酒」と書いた。消えゆく食文化の記録。味の記憶を文字に残すことは難しいが、記録しなければ永遠に失われる。鳳凰領の食もいつか同じ運命を辿るのかもしれない、と思うと筆先が重くなった。この茶の味も——大地の力が衰えれば、薄くなるのだろう。商人の言葉が頭をよぎった。「どこへ行っても飯が不味くなった」——その波が、いつかこの茶にも及ぶのか。



「地養術でさえ、どうした」


「……いいえ。何でもありません」


(まだ確証がない。外縁部の異変は——まだ確かめていない。確証なく不安を口にしても混乱を招くだけ)


 暁風が麗華を見た。真っ直ぐな目だ。逸らせない目。この男の前では、嘘が通じない。


「隠しているだろう」


「隠してはいません。——まだ確かめていないだけです」


「確かめたら、教えてくれ」


「……ええ」


 暁風が席を立ち、窓辺で空を見上げた。曇天だ。灰色の雲が低く垂れ込め、鳳凰領の畑に影を落としている。馬乳酒の酸味を思い出した。あの一杯に込められた草原の記憶が、もう二度と生まれないかもしれない。


 北の草原が枯れた。東の穀倉が潰れた。南の海が枯れた。


 次は——どこだ。


 窓の外の灰色の空を見つめながら、暁風は椀に残った茶を飲み干した。冷めた茶は苦いだけだった。馬乳酒の酸味も、鳳凰領の茶の甘みも、大地が生きていなければ生まれない味だ。


 麗華は答えを知りたくなかった。知っているはずの答えを、認めたくなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ