勝利の代償
軍事衝突の総括は、数字の羅列だった。
麗華は春蘭と暁風を交えた三人の会議で、帳面を広げた。蝋燭が三本、卓の上で揺れている。帳面の墨文字が光を受けて黒く沈み、まるで墓碑銘のように見えた。
「味方の被害。死者四十一名。負傷者百二十六名。——帰らなかった人の名前は、後で確認します」
暁風が黙って頷いた。一人一人の名前を知る必要がある。将軍の責務だ。四十一の名前。四十一の家族。四十一の食卓が、もう二度と揃わない。
「食糧消費量」
麗華が帳面をめくった。指先が紙の端をめくるたびに、数字が変わる。数字が増え、備蓄が減る。
「戦前の備蓄を百とすると——残りは、四十二」
春蘭が息を呑んだ。
「半分以下に」
「ええ。兵站の維持、北の民への食糧支援、凱旋の宴——全てを合算すると、備蓄は戦前の四割強。来年の春を越すのが厳しい数字です」
暁風が腕を組んだ。考え事をする時の癖だ。包帯の巻かれた左腕を、右腕の上に重ねる。傷跡が疼くのか、わずかに眉を寄せた。
「あんたの策がなければ、もっと消耗していた。責任を感じるな」
「責任は感じます。それが、食を武器にした者の務めですから」
麗華は淡々と言った。しかしその声に、自責の色はなかった。覚悟の色だ。後悔ではなく、結果を受け止める静かな強さ。帳面を持つ指先が微かに白いのは、力を込めすぎているからだ。感情を理性の下に沈める代わりに、指先に力が逃げている。
「対策を考えましょう。翠微の増産で冬小麦の収穫を前倒しできるか確認します。節約できる品目も洗い出す。味噌の仕込みを増やし、漬物の比率を上げれば、米の消費を一割は抑えられる。粥の炊き方も変えます。水を増やして薄くするのではなく、芋や蕪を刻んで混ぜ込む。腹持ちが良くなり、米の使用量を減らせる。芋粥は甘みが加わって味も悪くない。蕪を入れれば食感の変化も出ます。蕪の甘みと米の甘みが合わさると、単調にならず食が進む。節約と味を両立させる——それが鳳凰領の知恵だ」
「漬物で凌ぐのか」
「漬物は優秀な保存食です。蕪も大根も、塩と糠があれば長く持つ。それに漬物があれば粥の量が少なくても満足感がある。塩気が米の甘みを引き立てて、少ない量でも腹が落ち着く」
「種籾は」
「手をつけません。種籾を食べたら来年の収穫がない。それだけは——最後の一線です」
暁風が頷いた。
会議が終わった。春蘭が帳面を抱えて出ていく。
蝋燭の炎が揺れ、壁に落ちた三人の影が伸び縮みした。蝋が溶けて小さな水溜まりを作り、甘い匂いを立てている。卓の上には春蘭が置いていった茶が冷めかけていた。会議の間、誰一人として茶に手をつけていない。帳面の数字だけが卓を支配していた。
暁風が立ち上がりかけて、止まった。
「麗華」
初めてだった。「あんた」でも「鳳殿」でもなく——名前で呼んだ。
麗華が振り返った。心臓が跳ねたが、表情は動かさなかった。
「……はい」
「よくやった」
それだけ言って、暁風は出ていった。足音が廊下に響き、遠ざかり、消えた。
一人になった執務室で、麗華は椅子に深く座った。
(名前で、呼ばれた)
帳面をめくりながら、麗華は漬物の在庫を確認した。蕪と大根の糠漬けが各十壺。梅干しが五壺。塩漬けの野菜が八壺。保存食の要は漬物だ。米が減っても漬物があれば粥の味が変わる。漬物の酸味と塩気が米の甘みを引き立て、少量でも満足感を生む。麗華は漬物壺の蓋を一つずつ開け、中身を目視で確認した。糠床の状態、塩の加減、発酵の進み具合。五感を使った品質管理だ。帳面の数字だけでは見えないものを、舌と鼻と目で捉える。それが鳳凰領の食を守る仕事だ。以前なら半年は余裕があった備蓄が、今や二ヶ月で底をつく。節約しても三ヶ月が限度だ。春の収穫まで四ヶ月。差し引き一ヶ月分が、どうしても足りない。
頬が熱い。自分でもわかるほどに。耳の先まで熱が昇っている。
(今は——そういうことを考えている場合ではない。備蓄が四割。来年の春を越せるかどうかの瀬戸際。暁風殿の視線がどうとか、名前を呼ばれたとか——)
だが、心臓がまだ跳ねている。暁風の低い声で「麗華」と呼ばれた響きが、耳の奥で繰り返し再生されている。二文字だ。たった二文字の名前が、こんなにも胸を揺らす。
麗華は冷めた茶を一気に飲み干し、帳面に向き直った。茶の苦みが、甘い動揺を洗い流す——はずだった。流れなかった。
帳面を開いた。数字の羅列が目に飛び込む。米の残量、味噌の壺数、塩の壺数、干し魚の束数。全ての数字が赤い線——危険水準を下回っている。
蔵の中は空に近い。勝利の代償だ。戦に勝ち、和平を作り、敵の民にも食糧を届けた。正しいことをした。だがその代償は——空の蔵だ。
冷めた茶を一口含んだ。渋みが舌に広がり、甘みの余韻が消えかけている。二煎目を過ぎた茶は、こうして苦みだけが残る。それでも飲んだ。味がなくても、温もりは体を支える。
窓の外で、風が吹いた。夕暮れの風が執務室の書類を揺らし、蝋燭の炎を傾ける。
暁風が門の前に立っているのが見えた。夕日を浴びて、鳳凰領の畑を眺めている。左腕の包帯が風に揺れていた。橙色の光が暁風の横顔を照らし、いつもの厳つい顔が——少しだけ柔らかく見えた。
視線が合った。暁風がこちらを見上げた。窓越しに、二つの目が交差する。
二人とも、何も言わなかった。ただ視線を交わし——暁風が小さく頷いた。麗華も頷き返した。
それだけで十分だった。
次の戦いが何かは、まだわからない。だが——空の蔵を前にしても、一人ではないということ。
その確信だけが、今の麗華を支えていた。窓辺に置いた冷めた茶碗を手に取り、最後の一口を飲んだ。渋みだけが残った茶が、喉を滑り落ちていった。




