帰還
軍旗が見えた。
鳳凰領の門の上に立った見張りが叫んだ。
「陸将軍の軍旗です。帰還されます」
声が門前に広がり、通りに伝わり、畑にまで届いた。領民が門前に集まった。畑仕事の手を止め、蔵から出てきた女たちが、通りに溢れた。子供が走り回り、犬が吠え、鳳凰領が一瞬で活気に包まれた。
麗華は門前に立っていた。
身なりを整えた。藍染めの交領袍に深紅の腰帯。髪を銀の簪で纏め直した。来客時の装いだ。鏡の前で三度、襟元を直した。
(何をしている。ただの帰還報告だ。身なりなど——)
自分に言い聞かせても、手は勝手に襟元を正していた。簪の位置を微調整し、帯の結び目を確かめ——春蘭が後ろで咳払いをしたので、ようやく手を止めた。
「お嬢様。三度目の襟直しですよ」
「数えないでください」
軍列が近づいてくる。先頭に、鉄紺の軍袍を纏った騎馬の影。馬蹄が大地を打つ音が、心臓の鼓動と重なった。秋の空は高く澄み、軍旗が風に翻って青い空に鉄紺の布を広げている。
暁風だ。
馬上の暁風は、いつもより少し痩せて見えた。頬の肉が落ち、顎のラインが鋭くなっている。日焼けが深く、額の皮が剥けかけていた。左腕に包帯が巻かれているのが、距離があっても見えた。白い布が風にわずかに揺れている。
門をくぐった暁風が馬を降りた。地面に足がつく音が、妙に重く響いた。軍靴が石畳を打つ音。それだけの音なのに、麗華の胸が詰まった。
領民が歓声を上げた。
「将軍殿、お帰りなさい」
「よく戻ってくれた」
「おかげさまで畑も無事です」
暁風が軽く頭を下げて領民に応えた。表情はいつも通り無骨で、照れたように視線を逸らしている。そして——麗華の前に来た。
「ただいま帰還した」
暁風の声は変わらない。簡潔で、不器用で、真っ直ぐだ。だがその声の中に——戦場の疲労と、帰ってきた安堵が混じっている。
麗華は微笑んだ。いつもの穏やかな笑みだ。
「お帰りなさい」
声が震えなかったことに、自分で安堵した。唇を引き結び、頬の筋肉を制御し、目元を柔らかく保つ。後宮で身につけた技術を、今ほど感謝したことはない。
「腕の傷は」
「大したことない」
「そうですか。——あとで見せてください」
「見せるほどの傷じゃない」
「私が判断します」
暁風が口を閉じた。言い返せないのだ。麗華の穏やかな声の下に、有無を言わせない力があることを、もう知っている。
領民の目がある。多くは語れない。暁風が「報告は後で」と言い、兵の解散を指示して回った。
夕刻。
執務室で正式な報告を終えた後、麗華は暁風を食卓に招いた。
二人きりだった。春蘭は「報告書の整理がありますので」と、妙に手際よく姿を消した。襖を閉める時に、小さく笑ったように見えたが——見間違いだと思うことにした。
麗華が用意した膳は簡素だった。だが一品一品に意味がある。温かい汁物は疲労を癒す鶏の出汁。白飯は鳳凰領の新米で、粒が立って艶がある。焼き魚は暁風が好む鮎の塩焼きで、腹に卵を抱えた上物だ。青菜の炒めは胡麻油で手早く仕上げ、歯触りを残した。戦場帰りの胃に優しい献立だ。汁物の鶏出汁には生姜を効かせてある。疲れた体を温めるための配合だ。生姜の辛みが出汁に溶けて柔らかくなり、口に含むと喉の奥からじんわりと熱が広がる。
「食べてください」
暁風が箸を取った。汁物を一口飲み、長い息を吐いた。肩の力が抜けていくのが見えた。戦場の緊張が、湯気と共に溶けていく。
「……旨い」
その一言に、戦場の全てが溶けていた。
「ありがとうございます」
二人で黙々と食べた。会話は少ない。だが沈黙が心地よかった。箸が器に触れる音。汁を啜る音。白飯を噛む音。それだけが食卓に満ちている。焼き魚は鳳凰領の川魚で、皮がぱりと香ばしく、身は脂が乗ってほろりと崩れた。青菜の炒めは胡麻油の香りがして、噛むと緑の苦みの奥から甘みが追いかけてくる。
食事が終わる頃、麗華が立ち上がった。
「腕を見せてください」
「だから大したことは——」
「暁風殿」
麗華の声に有無を言わせない響きがあった。暁風が渋々、袖をまくった。
包帯を解く。赤い刀傷が左腕を斜めに走っている。塞がりかけているが、まだ痛々しい。肉が盛り上がり、周囲の皮膚が赤黒く変色している。
「深手ではないですね。でも——跡が残りそう」
暁風が食卓に着いた時、白飯の艶に目を見開いた。鳳凰領の新米は粒が大きく、一粒一粒が自ら光を放つかのように輝いている。箸で掴むと米粒がわずかに粘り、持ち上げた瞬間に甘い湯気が立ち上った。この男は旨い物を食った時、必ず箸が一拍止まる。麗華はそれを知っている。だから今夜は、一番良い米を選んだ。戦場帰りの舌に、鳳凰領の力を存分に味わってほしかった。
「武人に傷は勲章だ」
「勲章でも手当はしてください」
麗華が薬を取り出し、新しい布で傷に塗った。薬草の清涼な香りが漂った。
指先が暁風の腕に触れた。
暁風が微かに息を呑んだ。
麗華も——指先が震えそうになるのを堪えた。
温かい肌だった。武人の腕。硬い筋肉と、その下の温もり。生きている。この人は生きている。
「……痛みますか」
「いや」
包帯を巻き直した。丁寧に、きつすぎず緩すぎず。
二人とも、手を引いた。
沈黙が落ちた。蝋燭の炎が揺れ、二人の影が壁に伸びている。
何も言えないまま、麗華は汁物のおかわりを注いだ。暁風が受け取り、黙って飲んだ。
「……旨い」
「おかわりは、まだありますよ」
「もらう」
言葉にしない想いが、食卓の上に満ちていた。汁物の湯気が二人の間で立ち上り、温かい靄のように漂っている。
その夜、暁風は食卓を片づける麗華の背中を見て——何か言いかけて、やめた。
麗華は暁風が去る足音を聞きながら——振り返りたくて、振り返れなかった。
空の椀に、汁物の温もりがまだ残っていた。




