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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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剣を収めて

 停戦が成立した翌日、暁風は前線で戦闘終結を宣言した。


「全軍に告ぐ。停戦成立。これをもって戦闘を終結する」


 砦に将軍の声が響いた。兵たちが静かに、しかし確かに安堵の息をついた。歓声を上げる者はいなかった。疲労が深すぎた。三日間の飢えと、その前の激戦と、北辺の容赦ない寒さが、兵の体力を根こそぎ奪っていた。頬がこけ、目の下に隈を刻んだ兵たちが、互いの肩を叩き合って無事を確かめている。目尻に光るものがある者もいたが、誰もそれを指摘しなかった。


「撤収準備を始めろ。明後日には発つ」


 副官が指示を受けて走る。暁風は砦の壁に背を預けた。石壁の冷たさが背中に沁みたが、それが心地よかった。生きている証だ。遠くで厨房番が鍋を洗う音がした。戦が終われば、最初にすることは鍋を洗うことだ。次の飯を炊くために。


 左腕が疼く。包帯を巻き直そうとして、片手では上手くいかなかった。布の端が解け、巻き直すたびにずれる。


「将軍。包帯を替えましょう」


 副官が戻ってきた。


「いい。自分でやる」


「左腕では無理です」


 結局、副官に手伝ってもらった。包帯の下の傷は塞がりかけているが、深い赤の線が腕を斜めに横切っている。皮膚が盛り上がり、まだ熱を持っていた。跡は残りそうだった。古い包帯には薄茶色の染みが広がっていた。血と汗の混じった、戦場の色だ。


 新しい包帯は白く清潔で、巻き直すと薬草の清涼な匂いがかすかに立った。麗華が前線に送った軟膏の匂いだ。紫根の赤紫と当帰の土臭い香りが混じった、独特の匂い。あの女は薬にまで気を配っている。


「大した傷じゃない」


「深手ではありませんが——筋を切っていなくてよかったです。もう少し深ければ剣が握れなくなっていた」


 暁風は左手を握ってみた。力は入る。剣は振れる。それで十分だ。


(麗華に心配をかけた。——報告書を読んで、あの人はどんな顔をしただろう)


 ふと、そんなことを考えた。後宮で鍛えた鉄の仮面の下で、あの琥珀色の目が揺れる姿が浮かんだ。


 夕刻、暁風は砦の外に出た。


 北の平原では、穏健派の将が強硬派の残党をまとめている。こちらを見て、手を上げた。暁風も手を上げて応えた。


 昨日まで殺し合っていた相手だ。だが停戦が成立した今は——敵ではない。


「酒があるぞ。飲むか」


 穏健派の将が、馬の背から革袋を降ろした。遊牧民の馬乳酒だ。革袋から注ぐと、白濁した液体が木椀に満ちた。独特の酸い匂いが鼻を突く。革袋の匂いと乳の発酵した匂いが混じり合い、草原そのものを凝縮したような香りがした。


「もらう」


 二人で酒を酌み交わした。砦と平原の境目で、雪を踏みながら。足元の雪がきしみ、白い息が交差した。


 馬乳酒は独特の酸味があった。暁風は初めて飲んだが、嫌いではなかった。酸っぱさの奥に微かな甘みがあり、後味は意外にすっきりしている。舌の上で泡が弾け、乳脂の名残りがまろやかに残った。遊牧民の女たちが、馬の乳を木桶で何日も掻き混ぜて作ると聞いた。手間のかかる酒だ。草原の風土がなければ生まれない味だ。


 もう一口含んだ。酸味と甘みが舌の上で混ざり合い、乳脂の滑らかな感触が口の中を包む。革袋の匂いが微かに移っていて、それが草原の匂いそのものだった。


「お前の将軍ぶりは見事だった。あの谷間の伏兵には参った」


「そっちの騎射も大したものだ。矢が雨のように降ってきた」


 穏健派の将が笑った。白い歯が日焼けした顔に映える。


「食糧を送ってくれた女——鳳麗華というのか。あの女はどんな人間だ」


「……強い女だ。笑いながら帝国を詰ませるような女だ」


「恐ろしいな」


「ああ。恐ろしい」


 撤収の準備を進める中、暁風は砦の厨房を最後に見回った。竈の灰がまだ温かい。粥を炊いた鍋が洗い場に置かれ、米粒の跡が内壁に残っていた。この厨房で何日分の飯を炊いたか。何百人の腹を満たしたか。戦場の厨房は質素だが、ここが砦の心臓だった。飯が炊ける限り砦は落ちない。暁風はその真理を、この厨房で学んだ。竈の縁を手で撫でた。煤で黒ずんだ石が、まだほのかに温かかった。食の温もりの残り香だ。南に向かう飛脚は、鳳凰領の食糧で走っている。干し飯を懐に入れ、味噌を溶いた湯を竹筒に入れて持ち走る。人一人が走る力もまた、食に支えられている。



 暁風は馬乳酒を飲み干した。酸味が喉を通り、胃に落ちると温かくなった。


「だが——敵の民に食糧を送る女でもある。そういう女だ」


 穏健派の将が頷いた。


「食で戦を止めた。我が民は感謝している。——あの女に、伝えてくれ。北の民は、鳳麗華の名を忘れないと」


 暁風は酒杯を返し、砦に戻った。


 撤収の準備が進んでいる。荷車に残った物資を積み、砦の後始末をする。兵たちの顔には疲労が刻まれているが、どこか穏やかだ。帰れるのだ。


 厨房番の兵が、撤収前の最後の食事を用意していた。干し飯を水で戻し、味噌を溶いた簡素な粥。だが兵たちは黙々と食べた。帰路に備えて腹を満たす。食える時に食う——それが戦場の鉄則だ。暁風も粥を啜った。味噌の塩気が喉に沁みる。この味噌も鳳凰領の蔵から来たものだ。麗華の手が管理した備蓄から、数字と計算を経て、ここに届いた味噌だ。赤味噌を溶いた粥は、深い旨味があって腹に沁みる。干し飯の米粒が味噌の味を吸い、噛むたびに塩気と甘みが交互に押し寄せてくる。


 暁風は南の空を見た。鳳凰領の方角。空が高い。雲が流れ、光が雪原に差している。


(帰るか)


 口元が緩んだ。戦場では見せない顔だ。


 懐の布——麗華の握り飯の包みに、最後にもう一度触れた。米の匂いはもう消えていた。だが布の感触は変わらない。麗華の手が結んだ結び目の形が、指先に残っている。


「帰る。——待っていてくれ」


 誰にも聞こえない声で呟き、暁風は撤収の指揮に戻った。

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