翠微の奮闘
翠微は夜明け前に畑に出た。
霜が降りている。白く凍った土に膝をつき、両手を大地に当てた。指先が痛いほど冷たい。霜の結晶が手のひらの下で溶け、泥が指の隙間に入り込む。息を吐くと白い靄が地面を這い、霜を揺らした。
霊脈の力を呼ぶ。麗華が教えてくれた手順通りに、意識を土の中に沈める。呼吸を整え、心を静め、大地の鼓動に耳を澄ます。
「……聞こえる」
土の中で、霊脈が脈打っている。鳳凰領の大地は生きている。だが——いつもより鼓動が遅い気がした。疲れているのかもしれない。自分自身が疲れているだけかもしれない。寝不足のせいで感覚が鈍っているだけだと、そう思いたかった。
翠微は気にしないことにした。今は目の前の畑に集中する。
指先に淡い翡翠色の光が宿った。麗華の光とは少し違う。麗華の地養術は柔らかな淡緑色だが、翠微の光はもう少し深い翡翠色で、時折、青みを帯びる。まるで深い泉のような色だ。
その違いの意味は、まだわからない。老太爺が「お前にはわしにもない力がある」と言ったことがあったが、翠微自身はただ「色が違うだけ」としか思っていなかった。
「さあ、ごはんだよ」
翠微は土に語りかけた。師匠に聞かれたら「もう少し上品に」と注意されそうな言い方だが、土はこちらのほうが応えてくれる気がする。言葉が丁寧であることより、気持ちが込もっていることが大事だと、翠微は信じている。
霊脈の力が、指先から土に流れ込む。冬小麦の根が力を吸い、茎がわずかに伸びる。目に見えるほどではないが、翠微の手には確かに——作物が喜んでいるのがわかる。根が力を吸う感触は、赤ん坊が乳を飲むのに似ている。温かく、切実で、生きることへの渇望がある。
一区画を終え、次の区画に移る。繰り返す。夜明けから昼まで、翠微は畑を巡り続けた。額に汗が滲み、背中の麻の衣が湿って肌に貼りつく。
「翠微。食事を取りなさい」
春蘭が握り飯を持って畑に来た。白い布に包まれた握り飯が二つ。まだ温かい。
「ありがとうございます、春蘭姐さん」
翠微は泥だらけの手で握り飯を受け取った。布を開くと、湯気がふわりと立ち上った。鳳凰領の米の匂い。甘くて、どこか青草のような爽やかな香り。一口齧る。鳳凰領の米の甘みが口に広がった。塩の加減が絶妙で、噛むほどに甘みが増す。中に梅干しが一つ入っていた。酸味が口の中を引き締め、疲れた体に活が入る。
「旨い」
つい暁風と同じことを言ってしまった。
「師匠は兵站で忙しいし、暁風殿は前線。あたしがここで畑を守らなきゃ」
「立派になりましたね」
春蘭が珍しく微笑んだ。普段は表情を崩さない侍女頭の笑みは、それだけで褒められた気がして、翠微は頬を赤らめた。
午後、翠微は別の区画に移った。ここは麗華が直接管理していた穀物の主力圃場だ。冬小麦が整然と並び、青い穂が風に揺れている。
手を当てた瞬間、違和感があった。
「……あれ」
霊脈の応答が、朝の区画より弱い。
(気のせいかな。疲れてるだけかも)
力を込めた。いつもより多く、霊脈に呼びかける。「ごはんだよ」——いつもの言葉を心の中で繰り返す。応答は返ってくるが——やはり弱い。朝の区画では力強く「どくん、どくん」と脈打っていた霊脈が、ここでは「……どくん……どくん……」と間延びしている。
「もっとだよ。もっとごはんあげるから」
額に汗が浮かんだ。翠微は力を注ぎ続けた。指先の翡翠色の光が揺れる。青みが強くなった。光が指の間から漏れ、土の表面にまだら模様を描いた。
やがて作物が応え始めた。根が力を吸い、茎が伸びる。いつもより時間がかかったが、結果は出た。
「……ふう」
翠微は座り込んだ。足が痺れている。体力には自信があるが、地養術は精神力も消耗する。頭がぼんやりして、目の焦点が合いにくい。手のひらを見ると、細かい震えが残っている。
(師匠は毎日、何区画もこれをやっているんだ。すごい。——でも、体がもたないはず。あたしでもこんなに疲れるのに。師匠の体は、どれだけ——)
夕方、翠微は増産した穀物の最初の収穫を確認しに行った。まだ青い穂を手に取る。穂の先に小さな実が膨らみかけている。あと少しで実る。穂を耳に近づけると、風の音に混じって——気のせいかもしれないが——実が膨らむ音が聞こえるような気がした。
「師匠。約束通り、畑を守っています」
誰もいない畑に呟いた。
空を見上げた。北の空は灰色だ。重い雲が低く垂れ込め、雪の気配がある。あの方角で暁風殿が戦っている。師匠が送った食糧を食べて、兵を率いて。
「あたしは戦えない。でも——食糧は作れる。師匠が補給を送って、あたしが畑を守って。あたしたちの戦い方は、これだ」
握り飯の残りを食べた。冷めても旨い。鳳凰領の米だ。口の中で米粒を噛みしめるたびに、大地の力を感じる。あたしが育てた穀物が、いつかこうやって誰かの力になる。
(師匠に追いつきたい。いや——師匠を超えたい。あたしは、あたしのやり方で)
翠微は立ち上がり、次の区画に向かった。足が重い。体の奥から疲労が沁み出してくるが、まだ動ける。師匠はもっと辛いはずだ。毎日何区画も地養をこなし、兵站の計算をし、領民の世話をし——それでも弱音を吐かない人だ。
空が夕焼けに染まった。畑の緑が橙色の光に照らされ、穂先が黄金に輝いている。この光景を、あたしは守っている。師匠がいなくても、この畑は生きている。あたしの力で。
暗くなった畑道を戻りながら、翠微は足元に散らばった枯れ葉を踏んだ。さくさくと乾いた音がする。厨房の方から夕餉の匂いが漂ってきた。味噌汁の匂いだ。腹が鳴った。地養術で消耗した体が食を求めている。食べなければ明日の地養ができない。師匠の教えだ。「食べることは、明日の畑を守ること」——その言葉を噛みしめながら、翠微は厨房に向かった。
弟子の一日は、まだ終わらない。




