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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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三日分の食糧

 囮が動いた。


 麗華が送り出した偽の補給隊——砂袋を積んだ荷車三台が、旧ルートを北に進む。護衛は三十名。通常の補給隊と同じ規模だ。車輪が凍った地面を噛み、轍が白い道に真っ直ぐ伸びていく。護衛の兵たちは表情を殺して歩いていたが、足取りにわずかな緊張が滲んでいた。囮であることを知っている者は、隊長を含めてわずか三名だ。


 同時に、代替ルートを本物の補給が進んでいる。こちらは護衛二百名。険しい山道を迂回し、第三中継地を目指す。


 報告を待つ時間が、最も長い。


 麗華は執務室で帳面を広げたまま、筆を動かせずにいた。墨が穂先で固まりかけている。


 囮が敵に見つかるか。見つかった時、敵が食いつくか。食いついた時、暁風の伏兵が間に合うか。一つでも歯車が狂えば、囮の兵三十名が無駄死にになる。


 全てが計算通りに行く保証はない。


「お嬢様。茶を」


 春蘭が湯呑みを置いた。麗華は機械的に手を伸ばし、口に含んだ。熱い。舌を焼く痛みで、少しだけ意識が鮮明になった。茶の苦みが喉を滑り、胃に落ちる。鳳凰領の一煎目の茶は、青い香りが清冽で、苦みの奥に微かな花の甘みが隠れている。今はその甘みを感じる余裕がなかった。


 茶を飲み終えた椀を卓に置くと、磁器の底が微かに鳴った。その音が静寂の中に落ち、長い余韻を引いた。窓から差し込む冬の陽が帳面の墨字を照らし、数字の列が白く光る。麗華は筆を持ち直し、穂先の固まりかけた墨を硯で慣らした。書くべきことがあるはずだが、頭が動かない。意識の大半が北に向いている。


 二日目の夕刻。飛脚が駆け込んできた。汗と泥にまみれた顔に、興奮の色がある。


「第二中継地付近で敵別動隊が囮に接触。交戦開始」


 麗華が立ち上がった。


「暁風殿の伏兵は」


「谷間に展開済み。敵が谷に入り次第、挟撃の態勢」


「——かかった」


 麗華は窓に駆け寄った。見えるはずもない北の空を睨む。灰色の雲の向こうで、今まさに策が動いている。


 同じ頃、谷間では暁風が伏兵を率いていた。


 囮の荷車を追った敵の別動隊——百二十騎が谷間に飛び込んできた。荷車の中身が食糧だと信じて、必死の形相で突進してくる。馬の口から泡が噴き、騎手の目は血走っていた。飢えた者の目だ。頬がこけ、唇が割れ、鎧の隙間から覗く腕は骨ばっている。


「今だ」


 暁風の号令で、谷の両翼から弓兵が一斉に射かけた。


 矢の雨が谷間に降り注ぐ。狭い谷で騎馬が折り重なり、混乱が広がる。悲鳴と馬の嘶きが谷壁に反響し、轟音になった。岩肌に矢が当たって火花が散り、落馬した騎手が雪解け水の中に沈む。


 暁風が剣を抜いた。


「突撃。逃がすな」


 瑛朝軍が谷の出口を塞ぐように殺到した。逃げ場を失った敵が抵抗するが、谷間では機動力が使えない。暁風が先頭に立ち、敵将を討ち取った。


 一刻後、敵の別動隊は壊滅した。捕虜四十余名。残りは戦死か逃亡。谷底に折り重なった馬と人の間を、赤い血が雪を溶かしながら流れていた。


「勝った」


 副官が息を弾ませた。暁風は剣を鞘に戻した。


「まだだ。本物の補給が届くまでが戦だ」


 その夜、代替ルートを通った本物の補給隊が砦に到着した。


 荷車から米俵が降ろされた。味噌壺が並べられた。干し魚の束が積まれた。蔵に物資が入るたびに、兵の顔が明るくなっていく。松明の灯りに照らされた米俵の麻布が、黄金よりも眩しく見えた。


 兵が歓声を上げた。


「飯だ。飯が来た」


「補給が来たぞ」


 兵たちが我先にと粥の釜に群がった。三日間、薄い粥しか食べていなかった腹に、まともな飯が入る。釜から立ち上る湯気が、砦の冷えた空気に白く広がった。米の匂い。味噌の匂い。生きている匂いだ。味噌を溶いた粥の香りが砦全体に漂い、石壁にまで匂いが染み込んでいくようだった。


 谷底で戦闘が終わった後、兵たちは我先にと釜に群がった。補給隊が運んできた米俵を開封し、大釜で粥を炊く。蒸気が冷えた谷の空気を白く染め、米の甘い匂いが岩壁に反射して四方から押し寄せてきた。兵たちの手が椀を差し出す速さは、戦場で武器を構える速さと変わらない。暁風はその光景を見ながら、椀を持つ手の震えが食への渇望なのか、生き延びた安堵なのか、見分けがつかなかった。飢えた人間にとって食は全てだ。戦の勝敗よりも、一杯の粥のほうが重い。それを暁風は戦場で学んだ。麗華が最初から知っていたことを。椀を空にした兵が二杯目を求める。三杯目を求める者もいた。暁風はそれを止めなかった。



 若い兵が椀を抱えて泣いていた。


「旨い。こんなに旨い飯は——」


 ただの白粥だ。特別な味付けはない。だが三日間飢えた後の粥は、どんな御馳走よりも旨い。米の一粒一粒が舌の上で溶け、甘みが体の隅々に染みわたっていく。温かい粥が胃に落ちるたびに、冷えきった体の奥から熱が広がった。


 暁風は兵と同じ粥を食べた。鳳凰領の米。麗華が守り、翠微が育て、補給隊が命がけで運んだ米。その全てが、今この椀の中にある。味噌を溶かした粥は、塩気と旨味が程よく、冷えきった腸に沁みた。干し魚を粥に浸して齧ると、脂の旨味が米の甘みと混ざり合い、得も言われぬ味になった。三日間飢えた体には、何よりの御馳走だ。


(麗華の策が勝った)


 粥の温かさが胃に沁みた。体の芯から力が湧いてくる。空腹だった体に血が巡り、手足の指先がじんと熱を持った。


「将軍殿。これで——」


「ああ。反攻する。今度は俺たちの番だ」


 暁風は椀を置き、立ち上がった。


 食糧が届いた。兵は食べた。力が戻った。


 ここからは——将軍の仕事だ。


 麗華に送る報告書を短く認めた。


「補給到着。作戦成功。反攻を開始する。——旨い飯だった。感謝する」


 飛脚が南に走った。


 鳳凰領の執務室で、麗華がその報告を受け取るのは翌朝のことだ。暁風の武骨な筆跡で書かれた「旨い飯だった」の一行を読んで、麗華は——少しだけ、目を細めるだろう。

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