北辺の雪
北辺の砦は、雪と風に晒されていた。
暁風が到着した時、守備隊の兵は既に疲弊していた。越境した敵の騎馬隊が、三日にわたって周辺の集落を襲撃している。砦の石壁には矢が刺さった跡が何十と残り、門の前には応急処置の血の滲んだ布が散乱していた。風が布の端を攫い、赤黒い染みのついた切れ端が雪の上を転がっていく。
「陸将軍、到着されましたか。助かります」
守備隊の隊長が駆け寄ってきた。顔に疲労が滲んでいる。頬がこけ、目の下に隈が刻まれていた。三日まともに眠れていないのだろう。唇が荒れ、口の端に乾いた血が張りついている。鎧の紐が緩んでいるのも直す余裕がなかったと見える。
「状況を聞かせろ」
「敵は騎馬三千。正規軍ではなく、複数の部族の寄せ集めです。統率は緩いですが——」
「飢えている分、戦い方が荒い。そうだな」
隊長が頷いた。
暁風は砦の櫓に登り、北の平原を見渡した。白い雪原が地平まで続いている。遮るものがない。風が頬を叩き、吐く息が白く凍った。鼻の奥が痛いほどの冷気だ。空は灰色の雲に覆われ、太陽の位置すら判然としない。雪原の上を北風が唸りながら走り、積もった雪の表面を薄く削って地吹雪を起こしていた。騎馬戦では、この開けた地形が敵に有利に働く。正面からの激突は愚策だ。
「正面からぶつかれば機動力で負ける。地形を使う」
暁風は地図を広げた。砦の東に谷間がある。幅が狭く、騎馬隊が横に広がれない地形だ。
「ここに誘い込む。谷間に入れば騎馬の利点は消える」
「しかし将軍、敵がおとなしく谷に入るでしょうか」
「入れる。——餌を撒く」
暁風が指で地図を叩いた。革手袋の指先が、谷の入口に当たる箇所を二度、三度と打つ。
「補給隊を囮に使う。食糧を積んだ荷車を谷の入口に走らせる。飢えた連中なら食糧に食いつく」
翌朝、最初の遭遇戦が起きた。
敵の斥候部隊が砦の南に現れた。五十騎ほど。暁風は百の兵を率いて迎撃に出た。
雪原に馬蹄が響く。敵は小回りの利く草原馬に跨がり、巧みに距離を取りながら矢を射かけてくる。遊牧民の騎射は精度が高い。風を読み、馬上で体勢を変えながら正確に狙ってくる。矢が風を切る音が、四方から襲いかかった。
「盾を前に。弓隊、応射」
暁風の号令で瑛朝軍が隊列を組む。歩兵の盾が壁となり、その隙間から弓兵が矢を放つ。
敵の一騎が落馬した。しかし残りは素早く散開し、別の方角から攻めてくる。水のように流動する戦い方だ。
「機動力が違う。正面からは不利だ」
暁風は撤退を指示した。砦に戻り、門を閉じる。
損害は軽微だった。味方の死者はなく、負傷者が三名。しかし——
「これは斥候だ。本隊はまだ来ていない」
暁風は砦の中で兵を集めた。
「敵は飢えている。だが弱くはない。騎射の腕は瑛朝軍より上だ。正面戦闘では消耗する」
兵が不安そうな顔をしている。中には唇が青ざめている者もいた。若い兵の一人が、盾を抱えたまま小刻みに震えている。寒さだけではない。初めての実戦だろう。
「だが、奴らには弱点がある。補給がない。食糧がない。長期戦ができない」
暁風が振り返り、蔵を指差した。
「こちらには食糧がある。鳳凰領から補給が来る。時間は味方だ。焦るな」
兵の顔に安堵が広がった。将軍の言葉は短い。だがその短さが——確信に満ちた重みを持っていた。
夜、暁風は砦の厨房で兵と同じ食事を取った。温かい粥に、塩漬けの野菜、干し魚の欠片。質素だが、腹は満たせる。粥の湯気が凍える空気の中に白く立ち上り、干し魚の塩気が冷えた体に沁みた。塩漬けの野菜は蕪と大根で、噛むと酸味の後に微かな甘みが追いかけてくる。鳳凰領の土が育てた野菜は、漬物になっても底味が違った。
「将軍殿も同じ飯ですか」
若い兵が声をかけてきた。
「将軍が別の飯を食う軍は弱い」
砦の外では雪が一層強くなった。風が石壁の隙間を吹き抜け、古い松明の火を揺らす。暁風は毛布の中で拳を握り締めた。明日、谷間で伏兵を率いる。食える兵は勝てる。麗華の補給が続く限り、この砦は落ちない。砦の厨房では、明朝の粥の支度が始まっているはずだ。兵が粥を食い、身体を温め、武器を取る。その全ての始まりが——一杯の粥だ。食が戦を支え、戦が食を守る。
暁風が粥を啜った。鳳凰領の米で炊いた粥だ。戦場の粥だが、米の甘みは健在だった。水で薄めても消えない甘さ。それが鳳凰領の米の力だ。塩漬けの野菜を粥に載せて一緒に食べると、酸味と塩気が粥の甘みを引き立てた。干し魚を齧れば、脂の旨味が口に広がる。質素だが、命を支えるには十分だ。この食事が毎日続く限り——この砦は持つ。
(麗華の米だ)
ふと、昨夜の山菜と鶏の煮込みを思い出した。あの甘い味。棗の甘さ。母の味に似ていた——いや、似せてくれたのだ。あの女は、俺の話を覚えていて、わざわざ。
粥の湯気の向こうに、麗華の笑顔が浮かんだ。椀を差し出す白い手。「おかわりはありますよ」と言った穏やかな声。
(帰る。必ず帰る)
暁風は椀を空にし、立ち上がった。
「……旨い飯を食わせてくれる女が、後方で補給を組んでいる。あの女が食糧を止めるわけがない。だから食え。食って、明日に備えろ」
若い兵が怪訝な顔をしたが、暁風は構わず続けた。
「明日、谷間に伏兵を配置する。全員、今夜はしっかり食って寝ろ」
兵が「はっ」と応じた。
北辺の夜は長い。雪が砦の屋根を叩く音を聞きながら、暁風は明日の戦を組み立てた。
懐に、麗華が握ってくれた飯の包みがある。中身はもう食べたが、包みの布は捨てていない。
麗華の手で結ばれた布の結び目を、指先で触れた。布地にはまだ、かすかに米の匂いが残っている。塩と梅の飯の匂いだ。一口ごとに鳳凰領の厨房が蘇る——あの温かい場所の記憶が、この凍てつく砦で暁風を支えている。
暁風は寝台に横たわった。薄い毛布を引き寄せ、目を閉じる。砦の外で風が唸り、雪が石壁を叩く音が絶えない。北辺の冬はこうだ。風と雪と、凍てつく闘いだ。だが毛布の中に手を入れれば、懐の布がある。麗華が結んだ結び目の感触が指先にある。それだけで——今夜も眠れそうだった。
誰にも見せない、将軍の密かな支えだった。




