故郷の味
出征の前夜。
麗華は厨房に立っていた。
「お嬢様、料理人に任せればよろしいのでは」
春蘭が呆れた顔で言ったが、麗華は首を振った。
「これは私が作ります」
卓の上には山菜と鶏肉が並んでいた。蕨の若芽は拳のように固く巻き、独活は白い茎を真っ直ぐ伸ばし、蕗の葉は翡翠色に瑞々しい。どれも鳳凰領の山で採れたものだ。
暁風が以前、ぽつりと語ったことがある。故郷の山里の話だ。陸家の次男として生まれ、軍に送られる前の幼い日々。母が作ってくれた煮込み料理の記憶。
「山菜と鶏の煮込み。母が作ると、いつも少し甘かった。何を入れていたかは知らん」
あの時の暁風の声は、いつもの簡潔な武人口調とは違っていた。遠い場所を見る目をしていた。戦場を何度もくぐった男が、あの瞬間だけは——ただの子供に戻っていた。
麗華は山菜を選り分けた。蕨は灰汁が強いから下処理に時間をかける。木灰を溶かした湯に一晩浸けて灰汁を抜いた蕨は、歯触りがぬめりながらも歯を押し返す弾力がある。独活は皮を剥き、薄く切って水に晒す。蕗は塩で板ずりしてから茹でる。指の腹に塩の粒が食い込み、蕗の繊維が潰れて青い汁が滲んだ。手間を惜しまない。今夜だけは、惜しまない。
鶏を捌いた。骨ごと大鍋に入れ、水を張り、生姜の薄切りを加えて弱火にかける。ゆっくりと温度が上がり、鶏の脂が溶け出して澄んだ金色の出汁になる。灰汁を丁寧にすくう。一度に取ろうとせず、何度も何度も、表面を撫でるように。
(少し甘かった、と言っていた。何で甘みを出していたのだろう)
考えて、棗を数粒加えた。山里の料理なら、手に入りやすい甘味はこれだろう。棗が煮汁に沈み、ゆっくりと甘みを放ち始める。出汁の色がわずかに赤みを帯びた。
下処理した山菜を順に加えていく。蕨の苦み、独活の清涼感、蕗の青い香り。それぞれが鶏の旨味と棗の甘みに溶けて、一つの味にまとまっていく。
煮込みが仕上がる頃、暁風が厨房を覗いた。
「何を作っている」
「お座りください。もうすぐできますから」
暁風が不思議そうな顔で腰を下ろした。甲冑は脱いでいるが、明日の出征のせいか、身体にはまだ張り詰めた気配が残っている。肩が微かに強張り、膝の上に置いた拳は無意識に握られていた。
麗華が椀に盛りつけた。山菜と鶏の煮込み。湯気が立ち上り、素朴な出汁の香りが広がった。棗の甘みが湯気に混じって、温かい匂いになる。椀の中で蕨が艶やかに光り、独活の白が鶏の金色の出汁に映えていた。
「以前、故郷の話をしてくださったのを覚えていて」
暁風が椀を見つめた。箸を取り、一口含んだ。
長い沈黙が落ちた。
暁風の箸が止まっていた。いつものことだ——麗華の料理を食べるとき、最初の一口で必ず箸が止まる。だが今夜は、止まる時間がいつもより長かった。暁風の喉が動いた。ゆっくりと、噛みしめるように飲み込んだ。
「……母の味だ」
暁風の声が掠れていた。
「同じだとは言わない。だが——この甘さは、母の煮込みと同じだ」
「棗を入れました。山里なら手に入りやすいかと思って」
「……そうか。棗か」
暁風が黙々と食べ始めた。一口ごとに、噛みしめるように。椀の中身が減っていく。蕨を噛み、独特のぬめりと苦みが口に広がると暁風の目が一瞬細くなった。鶏の骨の際の肉を丁寧に取り、煮汁を最後まで啜った。煮汁の底に沈んだ棗を一粒残さず箸で拾い上げ、口に含んだ。棗の果肉がほろりと崩れ、甘みが舌に溶けていく。
麗華は自分の分に手をつけた。味見はしたが、改めて食べると悪くない。鶏の出汁に棗の甘みが溶け、山菜の苦みがそれを引き締めている。母の味には及ばないだろう。でも——近づけたかもしれない。
「あんたは」
「はい」
「なぜ、俺の故郷の味を」
暁風が顔を上げた。真っ直ぐな目だ。いつも真っ直ぐに見る男だが、今夜は特に——逸らせない目をしている。暁の切れ長の瞳に、厨房の灯りが映っていた。
麗華は微笑んだ。
「明日、戦場に行く方に。せめて温かい記憶を持っていってほしくて」
(本当は。あなたに帰ってきてほしいから。帰る場所の味を覚えていてほしいから。——でも、そんなことは言えない)
「……旨い」
暁風が椀を空にした。
「おかわりを」
「ありますよ。たくさん炊きましたから」
二杯目を盛る手が、わずかに震えた。見られていないことを祈りながら、麗華は椀を差し出した。鍋の底に沈んだ棗が、ほろりと崩れた。
「どうかご武運を」
「ああ」
それ以上の言葉は出なかった。
春蘭が厨房の入口から覗いていたが、麗華は気づかないふりをした。春蘭も、黙って去った。
暁風が二杯目を食べ終え、箸を置いた。椀の底に残った煮汁まで、一滴も残さなかった。
「明朝、発つ」
「ええ」
「——待っていてくれ」
その一言は、将軍が部下に言う「待機せよ」とは違う響きを持っていた。声の温度が違う。言葉の重心が違う。
麗華は目を伏せた。
「……お待ちしています」
暁風が立ち上がり、厨房を出ていった。足音が廊下に消えるまで、麗華は動かなかった。
一人になった厨房で、麗華は空の椀を両手で持った。まだ温かい。暁風の手の温もりが移ったように。
(あの人は——帰ってくる。必ず。私の食糧が続く限り、あの人は戦える。だから——)
椀を洗いながら、麗華は明日からの兵站計画を頭の中で組み立て直した。
感情は、後で。今は算術の時間だ。
干し飯の梱包数を暗算し、補給線の中継地点を三つに設定し、天候による遅延を二日分見込む。米の量。味噌の壺数。塩の配分。薬草の束。全ての数字を頭の中で組み立て直す。暁風が戦場で戦うように、麗華は数字の戦場で戦う。
手は椀を洗い、頭は兵站を組む。
だが心の奥で——山菜と鶏の煮込みの甘い香りが、消えないでいた。大鍋の底に残った煮汁が、まだほのかに湯気を立てていた。棗の甘い残り香が厨房に漂い、麗華は一瞬だけ目を閉じた。この香りを忘れない。暁風が「母の味だ」と言ったこの香りを、戦が終わるまで——忘れない。




