将軍の出征
急報が届いたのは、朝餉の支度をしている最中だった。
「お嬢様、北辺から至急の飛脚です」
春蘭が駆け込んできた時、麗華は厨房で干し魚の焼き加減を見ていた。炭火の上で皮目がぱちぱちと弾け、脂の焦げる芳ばしい匂いが立ち上っている。焼き網の端に置いた蕪の薄切りが、じわりと水気を飛ばして飴色に変わりかけていた。箸を置き、手を布で拭いてから封を切った。
文面を読む目が、二行で止まった。
「北の強硬派が——国境を越えた」
暁風が飯を食う手を止めた。椀を卓に置く音が、妙に大きく響いた。厨房の炭火が爆ぜる音すら、一瞬遠くなった。
「強硬派というのは、穏健派と袂を分かった連中か」
「ええ。外交会議で和平に合意した穏健派とは別の勢力。合意を認めず、独自に越境したと」
麗華は書簡を卓に広げた。春蘭と暁風が左右から覗き込む。
「規模は?」
「騎馬三千。正規軍ではなく、飢えた部族の連合体。統率は緩いが——飢えた者ほど必死に戦う」
暁風の声に、将軍の冷静さが戻っていた。戦場を知る者の分析だ。
「越境地点は鳳凰領の北東、約百里。今の速度なら七日で領境に達する」
「七日」
麗華は目を閉じた。七日。それは兵站を組むには短く、放置するには長い。干し魚の焦げる匂いが鼻をかすめたが、もう食事どころではなかった。
「暁風殿」
「ああ」
「出征していただけますか」
暁風が立ち上がった。鎧を纏う前から、もう将軍の顔になっている。朝餉の椀を片手に持ったまま——それに気づいて、静かに卓に戻した。椀の中には粥が半分残っている。鳳凰領の米で炊いた、いつもの朝粥だ。
「朝廷の正式な命令は間に合わない。俺の独断になる」
「構いません。鳳凰領の防衛は自治権の範囲内。朝廷の許可は事後で取ります」
「——了解した」
暁風が部屋を出ようとした時、麗華が声をかけた。
「前線はあなたに任せます。兵站は私が担う」
暁風が振り返った。
「食糧がある限り、あなたは戦えます。私がそれを保証する」
「……頼む」
短い一語に、将軍の信頼が凝縮されていた。暁風が出ていった後、厨房に焦げ臭い匂いが広がった。干し魚が炭になりかけている。蕪の薄切りも黒ずんで、甘い焦げ臭さを放っていた。
(食糧で外交を制し、宰相を弾劾し、隣国との和平を結んだ。それでも——戦は来る。食卓を守るために、食糧を戦に注ぎ込まなければならない。なんという皮肉だろう)
麗華は春蘭に向き直った。
「春蘭。兵糧の準備を。干し飯、味噌、干し魚、塩漬けの野菜。兵一人あたり三日分を一梱包として五千人分」
「五千。暁風殿の手勢に加え、鳳凰領の守備兵も動かすのですか」
「守備兵の半数を暁風殿に預けます。残り半数で領内を守る」
春蘭が帳面を取り出し、走り書きを始めた。
「三日分の食糧が、兵一人の命を繋ぐ。補給が途絶えれば——」
「途絶えさせません」
(食糧で外交を制し、宰相を弾劾し、隣国との和平を結んだ。それでも——戦は来る。食卓を守るために、食糧を戦に注ぎ込まなければならない。なんという皮肉だろう。あの穏やかな朝餉の匂いが、もう遠い記憶のように感じる。干し魚の脂が炭火で弾ける小さな幸福が、戦の知らせ一つで粉々になる)
午後には兵糧の梱包作業が始まった。蔵から米俵が運び出され、女たちが総出で干し飯を炊き、味噌を量り、干し魚を紐で束ねる。蔵の前は炊事の煙と人の熱気で溢れ、まるで祭りの前夜のような喧噪だった。だが誰の顔にも笑みはない。
炊いた飯を広げて乾かす作業は手早く進んだ。熱い飯が薄く伸ばされ、秋の風にさらされて水分を飛ばす。干し飯に仕立てれば軽く、水さえあれば粥に戻せる。兵の命を支える最も効率的な形だ。味噌は壺ごとではなく、竹の皮に一食分ずつ小分けした。塩漬けの野菜は水気を絞り、麻布で包む。一つ一つの工程が命の算術だった。
翠微が駆けてきた。
「師匠、あたしも手伝います」
「翠微。あなたには別の仕事がある」
「え?」
「畑を守りなさい。私が兵站に集中する間、地養術は全てあなたに任せます」
翠微の目が大きくなった。
「前にもお願いしたでしょう。今度は——もっと長くなるかもしれない」
「……はい。必ず守ります」
翠微が畑に走っていく背中を見送り、麗華は蔵に戻った。
米俵を数える。塩の残量を確認する。味噌壺の蓋を開けて発酵の具合を確かめる。鼻をくすぐる味噌の芳醇な香りが、平時なら心を和ませるものだが、今は命の重さしか感じない。
(兵站とは、命の算術だ。一升の米が何人を何日養えるか。干し魚一尾がどれだけの塩分を補えるか。全てを数字に落とし込んで、一つも無駄にしない)
蔵の奥から塩壺を運び出しながら、麗華は一つ一つの物資に触れた。味噌の壺は蓋を開けて色と匂いを確かめる。赤味噌の深い香りが鼻を突く。一年以上寝かせた味噌だ。この匂いが前線の兵の粥に溶けて、凍えた体に沁みることになる。干し魚は鰯と鯵。塩が効いていて、そのまま齧れば酒の肴になるが、戦場では貴重な蛋白源だ。
暁風が甲冑姿で現れた。鉄紺の軍袍に暗銀の鱗甲。腰に長剣、背に弓。将軍の装いだ。朝まで粥を食べていた男が、もう別人のようだった。
「出る」
「ええ。——ご武運を」
暁風が頷き、馬に跨がった。五千の兵が後に続く。馬蹄の音が大地を揺らし、砂塵が門前を覆った。
門を出ていく軍列の最後尾が見えなくなるまで、麗華は立ち尽くしていた。馬蹄の音が遠ざかり、砂塵が風に散って消えた。静けさが戻ると、厨房から焦げた匂いが強く鼻を突いた。朝餉の干し魚は完全に炭になっていた。蕪の薄切りも黒く縮んで、食べられるものではなくなっている。暁風の椀に残っていた粥も冷えきって、表面に固い膜が張っていた。
(暁風殿。どうか無事で)
その祈りを振り払い、麗華は蔵に戻った。
祈るだけでは人は守れない。食糧を届けることが、今の自分にできる全てだ。
焦げた干し魚の匂いが、まだ厨房に残っていた。その匂いを嗅ぐたびに、今朝の穏やかな食卓が——暁風と並んで飯を食べていた日常が——どれほど貴重だったかを思い知る。
窓の外で、北風が吹き始めていた。




