消えた地図
暁風が鳳凰領に帰還したのは、弾劾の五日後だった。
門前で出迎えた麗華に、暁風は端的に報告した。声は疲労で掠れているが、目は澄んでいる。
「弾劾は成立した。趙文昌は罷免、蟄居。蘇家は資産凍結と当主の謹慎。——そして」
暁風が一通の封書を差し出した。朝廷の正式な印が押された公文書だ。厚い紙に朱印が鮮やかに押され、絹の紐で封じられている。
「蘇家の調査が正式に開始された。皇帝の勅命だ」
「蘇家の調査が——」
麗華は封書を受け取った。封書を持つ指先に力が入る。
「趙文昌の弾劾の過程で、蘇家との結託が明白になった。皇帝は蘇家の全面調査を命じた。——蘇家が保管していた霊脈図の行方も、調査の対象に含まれている」
麗華は執務室に入り、封書を開いた。春蘭と翠微も集まり、四人で文書を確認した。卓の上に広げられた文書を、四つの顔が覗き込む。
「蘇家の調査範囲は——蘇家の財務、後宮工作の実態、鳳家弾劾における偽証の詳細、そして趙文昌との結託の全容」
「お嬢様。ここに——『蘇家が入手した霊脈図の現物の確保』とあります」
春蘭が帳面を指差した。朱墨で強調された一文が、灯火の光に浮かび上がっている。
「ええ。霊脈図の現物が、蘇家の手にあるはず。あるいは——趙文昌経由で南に渡っている可能性もある」
麗華は文書を卓に広げ、暁風に向き直った。
「暁風殿。帝都の調査で、霊脈図の所在は確認できましたか」
「いや。蘇家の邸宅を捜索したが、現物は見つかっていない」
「見つからなかった?」
「ああ。趙文昌が南に渡した分の写しは押収文書にあったが——原本がどこにもない。蘇家の当主は『知らない』の一点張りだった。捜索隊が蔵の奥まで調べたが、出てこなかった」
麗華の右手が、左手首の内側を撫でた。怒りを感じたときの無意識の癖だ。指先が手首の細い血管の上をなぞる。
(霊脈図の原本が——行方不明。蘇家にもない。趙文昌にもない。南に渡したのは写しだけ。では原本は——誰が持っている? 消えた地図。隠された手がかり。——百年前の秘密が、まだ誰かの手の中にある)
「春蘭。趙文昌の押収文書の中に、霊脈に関する記述があったわね」
「はい。霊脈操作に関する技術的な記述です。——百年前の術に関連する内容だとお嬢様が仰っていました」
麗華は文書を手に取り、改めて精読した。灯火に照らされた古い紙の上で、墨の文字が浮かび上がる。
朝廷の古文書庫に保管されていた文書。趙家が代々入手し、管理していたもの。その中に——霊脈操作の理論が記されていた。
「この文書に書かれている術式は——地養術の基礎理論と一部が共通している。でもそれだけじゃない」
麗華は指で文書の一節を辿った。指先が古い墨の上を滑り、特定の符号のところで止まった。
「ここに——『大地の脈を逆流させる術』の記述がある。地養術は霊脈の力を畑に注ぐ術だけれど、この文書は——霊脈の力を逆に引き出す方法を記している」
「逆流?」
翠微が首を傾げた。明るい茶色の瞳に、不安と好奇心が入り混じっている。
「地養は、霊脈から大地に力を注ぐ。でもこの術は——大地から霊脈の力を引き抜く。やれば——」
麗華の声が低くなった。
「大地が枯れる。荒地化が起きる」
沈黙が落ちた。四人の呼吸と、窓の外の風の音だけが部屋を満たした。
「これは……百年前の霊脈震に関する記録か」
暁風が呟いた。腕を組み、眉間に深い皺を寄せている。
「可能性がある。百年前、誰かがこの術を使い——大地の霊脈を引き抜いた。それが霊脈震の原因だとすれば、荒地化の根本原因が見えてくる」
(祖父は——鳳家の先代が霊脈操作に失敗したと言っていた。でもこの文書によれば、朝廷にも霊脈操作の知識があった。鳳家だけの責任ではない——かもしれない。鳳家と朝廷が、共に関わっていた可能性がある。百年間隠されてきた真実が、今になって姿を現し始めている)
「お嬢様。この文書の原本は」
「趙文昌が持ち出した写しがこれ。原本は朝廷の古文書庫にあるはず。——ただし、趙文昌が全てを持ち出したかどうかは不明」
「そして——霊脈図の原本は行方不明」
「ええ。霊脈図と、この技術文書。二つが揃えば——百年前の霊脈震の真相に近づける。けれど片方が消えている」
(消えた地図。隠された技術。百年前の秘密。——全てが繋がり始めている。でも、最後のピースが足りない。パズルの最も重要な一片が、誰かの手に握られている)
麗華は文書を折り畳み、厳重に保管するよう春蘭に指示した。
「暁風殿。お疲れでしょう。まずは食事を」
「ああ。帝都では碌なものを食えなかった。帝都の食は味がしない。全部が——鳳凰領の半分以下だ」
「お察しします。鳳凰領の食材に慣れた舌には、帝都の食は物足りないでしょうね」
暁風がわずかに笑った。
「味が分かるようになったのは——ここに来てからだ。あんたのせいだ」
「私のせい、とは人聞きの悪い」
麗華は厨房に向かい、白飯を炊き、豆醤の汁物を温め、青菜を炒めた。白飯は鳳凰領の新米を土鍋で炊いたもので、蓋を開けた瞬間に甘い湯気が立ちのぼる。豆醤の汁物は麗華特製の合わせ醤で、大根と油揚げが入っている。青菜は胡麻油で手早く炒め、塩と少しの酒で味を整えた。暁風のために——いつもの食卓を整えた。
暁風が白飯を口にした瞬間、箸が止まった。いつもの反応だ。目を閉じ、ゆっくりと噛みしめ、深く息を吐く。
「……旨い」
「お帰りなさい」
暁風が目を上げた。麗華が微笑んでいた。穏やかな微笑み——知略家の笑みでも、政治家の笑みでもない。ただ、帰ってきた人を迎える笑み。
「帰ってきたか」
「ええ。帰ってきましたよ」
(「帰る場所」。暁風殿にとって——ここが、帰る場所になっている。そして多分——私にとっても、暁風殿がいるこの食卓が)
その先は考えなかった。今は考えるべきことが他にある。
消えた霊脈図。百年前の技術。荒地化の根本原因。
(この地図は、まだ誰かの手にある。——全てが繋がり始めている。だけど、まだ見えない)
麗華は白飯を口に入れた。鳳凰領の米の甘みが、舌に広がる。噛みしめるたびに、米の力が体に沁みていく。
(食糧で外交を制し、宰相を弾劾し、蘇家の調査を勝ち取った。だけど——本当の問題はこれからだ。荒地化の根本を止めなければ、食糧で何をしても対症療法に過ぎない。食を守るためには——食が生まれる大地を守らなければならない)
窓の外は暗くなっていた。冬の夜が鳳凰領を包み、遠くの山並みが闇に溶けている。
春蘭が文書を持って戻ってきた。
「お嬢様。もう一つ」
「何?」
「趙文昌の押収文書を精査していたら——文書の裏に、小さな書き込みがありました。墨の色が表面と違います。後から書き加えられたもののようです」
春蘭が差し出した文書の裏を、灯火に透かして見た。
墨で書かれた走り書き。急いで書いたのか、筆跡が乱れている。
「『鳳凰の根を掘れば、百年の嘘が剥がれる』」
麗華の背筋に、冷たいものが走った。
(鳳凰の根——鳳凰領の霊脈のことか。百年の嘘——霊脈震の真相。誰がこれを書いた? 趙文昌か。それとも——もっと前の誰かか)
「消えた地図。隠された技術。百年前の秘密。——全てが繋がり始めている」
麗華は呟いた。
暁風が箸を置いた。武人の目が、真剣に麗華を見ていた。
「次は——何が来る」
「わからない。でも——この先に、鳳家の秘密がある。祖父が語らなかった真実が」
冬の夜が深まっていた。
食卓の上で、白飯の湯気が静かに消えていく。
次の嵐が近づいていることを——麗華の直感が告げていた。




