将軍の器
敵の本隊が動いた。
翌朝、斥候が報告した。騎馬二千が砦に向かっている。残りの千は後方に控え、退路を確保する構えだ。
「来たか」
暁風は櫓から平原を見た。雪の向こうに、砂塵のような騎馬の群れが見える。大地を這う黒い影が、じわじわと近づいてくる。冷たい風が騎馬の土埃を運び、雪の匂いに混じって乾いた砂の臭いが鼻を突いた。
「作戦通りだ。囮の補給隊を出せ」
荷車三台が砦の東門から出た。米俵を積んでいるように見せかけた車列が、谷間に向かってゆっくりと進む。車輪が雪を噛み、轍が白い大地に筋を刻んだ。荷車の上には本物の米俵を数俵混ぜてある。遠目には十分な量に見えるはずだ。
敵の騎馬隊が動きを変えた。砦を迂回し、補給隊に向かう。
「食いついた」
暁風が馬に飛び乗った。
「伏兵部隊、谷間の両翼に展開。敵が谷に入ったら挟撃する」
谷間は幅が三十歩ほど。騎馬が横に五騎しか並べない狭さだ。両側を切り立った崖が囲み、崖の上からは弓が届く。雪が岩肌に張りつき、灰色の岩壁が空を狭く区切っている。谷底には雪解け水が薄く張り、馬の蹄が水を跳ね上げる音が反響する。冷たい風が谷を吹き抜け、兵の鎧に当たって低い音を立てた。伏兵たちは崖の陰に身を潜め、息を殺している。吐く息が白く立ち上らぬよう、布で口元を覆った者もいた。暁風は谷の出口側に陣取り、敵の動きを待った。手綱を握る指先が悴むほどの寒さだが、心は静かだった。
敵の先鋒が谷間に突入した。補給隊の荷車を追い、勢いよく谷に入る。馬蹄の音が谷壁に反響し、轟音になって響いた。
「——今だ」
暁風の号令で、谷の両翼に伏せていた弓兵が一斉に矢を放った。
頭上から降り注ぐ矢の雨に、敵の騎馬が次々と倒れた。狭い谷間で馬が暴れ、後続と衝突する。悲鳴と嘶きが重なり、隊列が崩壊した。
「突撃」
暁風自ら剣を抜き、谷の出口を塞ぐように兵を率いた。逃げ場を失った敵が混乱する中、瑛朝軍が正面から押し込む。
暁風の剣が閃いた。敵将の一人が馬上から斬りかかってきた。大振りの一刀を暁風が身を沈めて受け流し、返す刀で相手の肩を薙ぐ。刃が鎧の隙間を捉え、鮮血が雪に散った。赤い飛沫が白い地面に模様を描き、すぐに足元の雪解け水に溶けて流れた。
「ぐっ——」
敵将が落馬した。暁風が馬を寄せ、剣を突きつける。
「降伏しろ。これ以上は無駄だ」
敵将が歯を食いしばった。飢えて頬がこけているが、目には闘志が残っている。骨ばった顎を震わせながら、嗄れた声を絞り出した。
「……貴様らが食糧を独占しているから、我々は飢えるのだ」
「独占じゃない。協定を守れば食糧は届いた。破ったのはそっちだ」
敵将が言葉を失った。暁風の目に嘘がないことを、敵将も見て取ったのだろう。視線が力を失い、剣を地面に落とした。金属が雪の上で鈍い音を立て、血に汚れた刃が白い中に沈んだ。
谷間の戦闘は一刻で決着がついた。敵は三百を失い、残りは撤退した。谷の底に折り重なる馬と人の影を、雪が静かに覆い始めていた。
瑛朝軍の損害は死者十二、負傷者四十余。暁風にとって許容範囲だが、軽くはない。十二の名前を、後で全て確認しなければならない。十二人の兵。十二人が今朝食べた粥の味を、もう感じることはない。麗華が送った食糧で生き延びたはずの命が、戦場で散った。食が命を繋ぎ、戦が命を断つ。その矛盾を、暁風は飲み込んだ。
「将軍、お見事でした」
隊長が駆け寄ってきた。
「見事じゃない。まだ本隊の半分が残っている」
暁風は干し魚の最後の一片を口に放り込み、塩気を舌に染み込ませた。鳳凰領の干し魚は、噛むほどに旨味が滲む。脂の乗った鰯を丁寧に干した上物だ。麗華の蔵からここまで、どれだけの人手を経て届いたか。補給隊が険しい山道を越え、雪を踏み、荷車を押して運んだ。その全てが今、暁風の歯の間で砕けている。食とは、そういうものだ。一片の干し魚が、無数の手と足と汗の結晶だ。麗華が見たら「綺麗に食べてくれるのは作り手として嬉しい」と言うだろう。椀の底まで舐めるように食べる暁風を、あの女は穏やかに笑って見ていた。
暁風は剣の血を拭いた。刃についた血が、雪の上に赤い筋を引いた。
「だが、これで時間を稼いだ。次の補給が届くまで持たせろ」
砦に戻り、暁風は兵と共に食事を取った。干し飯に味噌を溶いた湯を注ぎ、干し魚を添えた質素な膳だ。味噌の塩気と干し魚の旨味が湯に溶け、冷えた体に染みわたった。干し飯は湯を吸ってふっくらと膨らみ、噛むと米の甘みが滲む。味噌は鳳凰領の蔵で一年寝かせた赤味噌で、塩気の奥に深い旨味が潜んでいた。匙ですくった赤味噌を湯に溶かすと、こっくりとした茶褐色に変わり、大豆の発酵した芳醇な香りが湯気と共に立ち上る。
戦の後の飯は、いつもより旨く感じる。生きている実感が、舌を鋭くする。一口の干し飯が、こんなにも甘い。これが鳳凰領の米だ。命を繋ぐ味だ。
暁風は干し飯を噛みしめながら、兵たちの顔を見渡した。疲れているが、士気は折れていない。将軍が兵と同じ飯を食い、自ら先頭に立って戦ったことが効いている。若い兵が隣の者と味噌湯を分け合い、「旨い」と小さく笑った。その笑顔が——戦場にあって、暁風の胸を温めた。食えれば笑える。笑えれば戦える。それが兵の真実だ。
「将軍殿。敵は再び来ますか」
「来る。だが次は向こうが慎重になる。その間に——」
暁風が南の空を見た。鳳凰領の方角だ。
「補給が来る。食糧が届く限り、俺たちは負けない」
(麗華。頼む。——食糧を、届けてくれ)
北辺の風は冷たい。だが飯を食えば、体は温まる。
将軍は粥の最後の一口を飲み干し、立ち上がった。空の椀を竈の傍に置く。椀の底に米粒の一つも残っていない。前線では、椀の底まで舐めるように食べる。一粒の米も無駄にしない。それが暁風の食い方だ。
次の戦に備えなければならない。




