宰相の食卓
趙文昌が失脚した翌日。
宰相府の門には封印が貼られ、趙家の紋章が掲げられた旗は降ろされていた。
帝都の噂は速い。朝議で弾劾が行われたその日のうちに、「宰相が国を売っていた」という話が市井に広まった。
春蘭の情報網は帝都の空気を逐一、鳳凰領に伝えていた。
「宰相府から調度品が運び出されています。金の燭台、翡翠の屏風、景徳鎮の陶器——四十年かけて溜め込んだ贅沢品が、次々と没収されている」
春蘭の報告を聞きながら、麗華は執務室の窓辺に立っていた。
「そして——食卓の器も没収されたそうです」
「食卓の器まで」
「ええ。宰相の食卓には金縁の碗と銀の匙が並んでいたそうです。それが全て持ち去られ——残されたのは素焼きの茶碗と木の匙だけ」
(豪華な食卓が消える。趙文昌の権力が、食卓の変化に映し出されている)
麗華は感慨とも冷静ともつかない顔で、帳面を見つめた。
「趙文昌殿は——蟄居を命じられたのね」
「はい。趙家の邸宅で蟄居。外出禁止、面会禁止。実質的な幽閉です」
「死罪ではなく蟄居か」
「皇帝の温情でしょう。四十年の功績を完全には否定しなかった——ということかもしれません」
(承乾なりの落とし前のつけ方ね。趙文昌を殺せば、趙家派閥の残党が反発する。蟄居なら、権力は奪えるが命は保てる。若い皇帝にしては——冷静な判断だわ)
麗華は椅子に座り、両手を膝の上に置いた。
「春蘭」
「はい」
「趙文昌殿は——最後まで『国のため』と言ったそうね」
「はい。弾劾の場でも、蟄居を命じられた際にも」
「そうだと思った」
麗華は目を閉じた。
(あの人にも理由はあった。鳳家が食糧を独占する構造は確かに危うい。一族が国の命脈を握ることの危険性——趙文昌の指摘は、的外れではなかった)
(だが方法が間違っていた。食糧の実態を知らず、代替策もなく、政治力だけで全てを解決しようとした。知性の限界を認められなかった。自分の理解できないもの——地養術を、食糧の現実を軽視した。その傲慢が、密通という禁忌に踏み込ませた)
「あの人は——国を回していた。それは事実よ。四十年の間、朝廷が崩壊しなかったのは趙文昌の手腕があったから。でも同時に——国を蝕んでもいた。回すことと蝕むことが、同じ手で行われていた」
春蘭は黙って聞いていた。
「権力は去ったけれど、問題は残る。趙文昌がいなくなっても、食糧危機は続いている。荒地化は進んでいる。朝廷の再編はこれからだし——蘇家の処分もまだ」
「ですね。趙文昌は終わりましたが——」
「宰相がいなくなっても、国の腹はまだ空いている」
麗華は立ち上がり、窓の外を見た。鳳凰領の畑が冬の低い陽光に照らされている。地養術で整えた土は黒々として健康的だが、この畑の実りだけでは国全体を支えきれない。
(趙文昌は消えた。けれど、彼が残した問題は消えていない。むしろ——宰相不在の朝廷は混乱するだろう。その混乱を誰が収めるか)
「お嬢様。一つ気になることが」
「何?」
「趙文昌の蟄居先から——文書が持ち出された形跡があります。没収前に、趙文昌自身が一部の書類を処分した、あるいは隠した可能性がある」
麗華の目が鋭くなった。
「どんな文書を」
「不明です。ただし——趙家が代々保管していた古文書の中に、帳簿との照合で行方不明になっているものがある。霊脈に関連する文書が含まれている可能性があります」
(趙文昌が南に渡した霊脈操作の技術文書。その原本——あるいは写しが、まだ趙文昌の手元にある?)
「春蘭。趙家の蟄居先を監視して。文書が外に持ち出されないように」
「承知しました」
春蘭が部屋を出ていった。
一人になった麗華は、粗末な膳で夕食を取った。白飯と漬物と味噌汁。いつもの簡素な食事だ。
箸を動かしながら、趙文昌の食卓を想像した。
四十年間、金の碗と銀の匙で食事をしてきた男が、今は素焼きの茶碗で粥を啜っている。
(「ざまぁ」と思うべきなのかもしれない。私を廃妃に追いやった黒幕が失脚したのだから。でも——)
麗華は味噌汁を啜った。温かい。大根と油揚げの味噌汁。毎日と同じ味だ。
(権力の虚しさ、とは思わない。趙文昌が贅沢な食卓を持っていたこと自体は罪ではない。罪は——その食卓を守るために、国を売ったこと)
(でも。もし趙文昌が、自分の食卓ではなく民の食卓を見ていたなら——結末は違ったかもしれない)
箸を置いた。
「宰相はいなくなった。しかし国の腹はまだ空いている。——これからが、本当の始まりね」
窓の外は暗くなっていた。
鳳凰領の空に、星が一つ、瞬いていた。
春蘭が戻ってきた。
「お嬢様。もう一つ、細かい報告ですが」
「何かしら」
「宰相府の食卓が没収された日——趙文昌殿は、素焼きの茶碗に白粥を盛って食べたそうです。四十年ぶりに、普通の器で食事をした」
「……そう」
「報告者によると——趙文昌殿は、その白粥を全部食べたそうです。残さずに」
麗華は一瞬、驚いた。
(趙文昌が——粥を残さず食べた。あれほど食糧を軽視していた男が)
「報告者の推測では——蟄居の身になって初めて、食事のありがたみを知ったのではないか、と」
「……皮肉ね」
「はい。残酷な皮肉です」
麗華は窓の外を見つめた。星が瞬いている。
(食糧を軽視していた男が、権力を失って初めて白粥のありがたみを知る。——もし趙文昌が最初から食の重みを理解していたなら。鳳家を排除する代わりに、鳳家と協力する道を選んでいたなら。全ては違ったかもしれない)
(でも——それは「たられば」よ。現実は、現実のまま受け止めるしかない)
「春蘭。趙文昌の件は終わった。これからは——前を見なければ」
「はい。お嬢様」
「蘇家の調査結果が出るまでの間に、鳳凰領の食糧生産を増強する。北への第一便の準備も始めなければ。——やることは山ほどある」
「承知しました。明日から——」
「明日からね。今夜は——もう少しだけ、この星を見ていたいわ」
春蘭は黙って一礼し、部屋を出ていった。
一人になった麗華は、窓辺で星を見上げた。鳳凰領の冬の空は、帝都より星が多い。
(宰相はいなくなった。蘇家は弱った。外交は成功した。でも——まだ終わっていない。荒地化は進んでいる。消えた霊脈図がある。百年前の秘密がある。——この先に、何が待っているのか)
星が瞬いた。冷たく、静かに。
麗華は長い息を吐いて、寝台に向かった。
明日から、また始まる。




