暁風の証言
帝都。
暁風は禁軍の軍装に身を包み、皇宮の門前に立っていた。
冬の朝。帝都の空は灰色で、低い雲が宮殿の屋根すれすれまで垂れ込めている。吐く息が白く凍り、暁風の鼻先を掠めて消えた。
手には密封された書簡の束。麗華から託された弾劾の証拠と、暁風自身の証言書だ。革紐で束ねられた文書は、手のひらに収まる大きさだが——この中に、宰相の政治生命を終わらせる力がある。
門衛が暁風の顔を見て敬礼した。皇帝直属の将軍の帰還——門を通すのに書類は不要だ。
だが暁風の足は、すぐには動かなかった。
(この門をくぐれば——もう戻れない)
証人に立つと決めた。将軍の位を賭けて、宰相を告発する。暁風の忠義は皇帝に向いているが、この告発は皇帝の側近を弾劾するものだ。承乾がどう受け止めるか——わからない。暁風を信じてくれるかもしれない。暁風を疑うかもしれない。四十年の宰相と、数年の将軍。天秤にかけるまでもない——と、承乾が判断する可能性もある。
(俺は正しいことをしているのか)
自問した。門前の石畳を見つめ、吐く息の白さを数えた。答えはすぐに出た。
(趙文昌は国を売った。それを見逃す将軍は、将軍の名に値しない)
門をくぐった。
皇宮の石畳が、軍靴の下で硬い音を立てる。朱柱が左右に並ぶ回廊を進み、奥殿へ。宮女が暁風の姿を見て脇に避け、小さく会釈した。
皇帝との私的な謁見の場に通された。
瑛承乾は執務卓に向かっていた。書簡を読みかけの手を止め、暁風を見た。若い皇帝の顔に、一瞬だけ安堵の色が浮かんだ——ように見えた。
「暁風。——戻ったか」
「陛下。直接お話しする必要がございました」
暁風は片膝をつき、書簡の束を差し出した。
「趙文昌宰相の密通に関する証拠です。南の海洋国家・西涼と個人的な密約を結び、甕津港の利権を私的に売却していました。加えて——朝廷の機密文書を外国に流出させた形跡があります」
皇帝の目が鋭くなった。若い顔の中で、瞳だけが一瞬で帝王のものに変わる。
「趙文昌が——密通を」
「はい。書簡の原本はこの中に。そして——俺が証人として立ちます」
承乾は書簡を受け取り、一通ずつ開いた。読み進めるごとに、顔から血の気が引いていく。指が微かに震え、紙を繰る音が部屋に響いた。
「これは——港湾利権の私的売却。見返りに年間銀三千両。そして——霊脈に関する技術文書の流出……」
書簡を全て読み終えた皇帝は、長い沈黙の後、卓に手をついた。その手の甲の筋が浮いている。
「暁風」
「はい」
「この書簡の入手経路を説明せよ」
暁風は端的に語った。外交会議中、趙文昌の手の者が南の代表と密会していたこと。その男を尾行し、宿舎で書簡を発見したこと。鳳家が書簡を解析し、密通の全容が判明したこと。一つずつ、見たことを見たまま語る。修辞を加えず、事実だけを並べる。
「つまり——鳳麗華が証拠を分析したのか」
「はい。書簡の分析は鳳家が行いました。しかし書簡を回収したのは俺です。そして内容の真偽は——俺が現場を見て確認しています」
承乾が椅子に沈んだ。若い皇帝の顔が、一瞬だけ年齢以上に老けて見えた。
「趙文昌。四十年、この国を支えたと——朕はそう信じていた」
「支えていた面もあったでしょう。だが——同時に、国を蝕んでいた」
暁風の言葉は簡潔だった。政治的な修辞は使えない。だが事実を真っ直ぐに伝えることはできる。嘘をつけない男の言葉は、修辞がない分だけ重い。
「陛下。弾劾の手続きを、正式に進めていただきたい。俺は——証人として立つ覚悟があります」
「将軍の位を賭ける、ということだな」
「はい」
承乾は暁風の目を見た。若い皇帝の瞳に、複雑な感情が渦巻いていた。信頼。裏切り。怒り。悲しみ。四十年の忠臣が国を売っていた——その衝撃を、皇帝は消化しきれていない。
「暁風。——お前は、なぜそこまでする」
暁風は一瞬だけ答えに詰まった。
「……正しいことだからです」
「それだけか」
暁風は黙った。
正しいことだから。それは本当だ。だが——それだけではない。
(麗華が見つけた証拠だ。あの人が積み上げた外交の成果を、趙文昌が裏で食い潰していた。それを許せない——そう思った。正義のためか。それとも——あの人のためか。多分——両方だ。分けることはできない)
答えは言わなかった。言う必要はないと思った。皇帝に告げるべきは事実であり、暁風の私情ではない。
「陛下。弾劾の場で、俺は全てを証言します。蘇家の工作員が鳳凰領を攻撃したとき、その背後に趙文昌の指示があったことも。密書で報告した内容の全てを、法廷で繰り返します」
承乾が深く息を吐いた。帝王の責任が、その肩にのしかかっている。
「わかった。弾劾の準備を進める。——暁風」
「はい」
「お前に問う。趙文昌を罷免した後——この国を誰が回す」
暁風は正直に答えた。
「俺にはわかりません。政治は——俺の領分ではない」
「では誰の領分だ」
暁風は一瞬だけ間を置いて、答えた。
「陛下ご自身の領分です」
承乾が目を見開いた。
「朕の——」
「四十年、趙文昌が回していた。だが——回すべきは陛下です。そのために皇帝がいる。俺は——そう信じています」
承乾は暁風をじっと見つめた。若い皇帝の瞳に、何かが動いた。四十年の宰相に依存してきた自分への自覚と、それを超えなければならないという覚悟が、同時に芽生えたように見えた。
やがて静かに頷いた。
「弾劾は——明後日、朝議の場で行う。証人として出廷せよ」
「承知しました」
暁風は一礼して退出した。
皇宮を出た暁風は、帝都の空を見上げた。冬の空は灰色で、低い雲が垂れ込めている。鳳凰領の冬空は澄んで高いのに——帝都の空は、いつもこうだ。
(弾劾が始まる。趙文昌は終わる。だが——その後、この国はどうなる)
懐に手を入れると、布に包まれた小さな包みに触れた。
握り飯だ。出発前に麗華が握ってくれたものの最後の一つ。保存が効くよう梅干しを入れてある。三日経っても、布の中で形を保っている。
暁風は包みを開き、握り飯を食べた。冷めていたが——米の味が、しっかりと舌に届いた。梅干しの酸味が口に広がり、三日分の疲労を少しだけ和らげる。
「……旨い」
鳳凰領の白飯。麗華が炊いた米。三日前に握られた飯が、まだ旨い。
(腹が減っては正義もできん)
握り飯を食べ終え、暁風は帝都の宿舎に向かった。
明後日の弾劾に備えて、証言の内容を整理しなければならない。暁風は言葉が不得手だ。弾劾の場では、事実を正確に、順序立てて語る必要がある。
(言葉は苦手だ。だが——見たことを、聞いたことを、そのまま語ればいい。嘘はつけない。嘘をつく必要もない。俺の取り柄は——嘘がつけないことだ)
宿舎の部屋で、暁風は証言の要点を紙に書き出した。筆跡は武骨で、字は上手くない。麗華の流麗な筆跡とは正反対だ。だが一字一字が正確で、事実を歪める余地がない。
(あの人なら——百倍うまくまとめるだろう。だが弾劾の場に立つのは俺だ。俺の言葉で、俺の声で語る)
紙を折り畳み、懐に仕舞った。
窓の外は暗くなっていた。帝都の夜は鳳凰領より暗い。星が見えない。灰色の雲が月を隠し、街の灯火だけが弱い光を放っている。
(麗華殿。——あんたが託した証拠を、必ず届ける)
暁風は目を閉じた。




