南を揺さぶる
六日目の朝。
麗華は南の陳海門との最後の詰めの交渉に臨んだ。
場所は東棟の同じ部屋。だが空気は初日とはまるで違う。陳海門の扇子は閉じたまま卓に置かれ、商人の余裕は消えていた。顔に疲労が浮かび、目の下の隈が初日より濃くなっている。夜通し本国との連絡を取り合っていたのだろう。
「陳殿。海上封鎖の件です」
「……ええ」
「封鎖を解きなさい」
麗華の声は穏やかだが、有無を言わせない響きがあった。後宮で磨いた話法——優しい声で、逃げ場のないことを言う。
陳海門が苦い顔をした。
「鳳麗華殿。そう簡単には——」
「簡単ではないことは承知しています。しかし」
麗華は卓の上に一枚の書面を置いた。墨書の文書で、朱印が押されている。
「北の北燕との食糧供給協定は、すでに大枠で合意しています。この文書がその写しです。——内容をご確認ください」
陳海門が書面に目を走らせた。読み進めるにつれて、顔色が変わった。血の気が引き、額に薄い汗が浮かんでいる。
「食糧の供給量は——北に優先配分するとある」
「ええ。現時点での合意はそうなっています。北は食糧が命に関わる状況ですから、優先度は高い」
「しかしそれでは——南に回る分が」
「ありません。北への供給を優先すれば、南にお渡しする穀物はゼロです」
陳海門の喉が鳴った。乾いた嚥下の音だ。
「それは——」
「もちろん、これは現時点での暫定合意です。南が封鎖を解除し、交渉に前向きな姿勢を示せば——配分は変わります」
麗華は卓に果実水の杯を置いた。南の使節団が持参した果実で作った水だ。琥珀色の液体に小さな気泡が浮かんでいる。
「どうぞ。お喉が渇いているでしょう」
陳海門は杯を見つめ、それから麗華を見た。渇いた者に水を差し出す——その行為の意味を、商人は正確に理解した。これは慈悲ではない。「私には水がある。あなたは渇いている」という力関係の提示だ。
「……渇いた者に水を差し出すのが、あなたの外交ですか」
「ええ。渇きを知る者だけが、水の価値を知る。——お互い、渇いているのは同じでしょう」
陳海門がゆっくりと杯を取り、一口飲んだ。自国の果実で作った水が、この場では他人の手で出されている。その皮肉を噛みしめるように、ゆっくりと嚥下した。
「わかりました。封鎖の段階的解除を——本国に打診します」
「段階的、ではなく」
「全面解除を——検討します」
麗華は微笑んだ。
「代わりに——甕津港の共同管理の件は?」
「合意の枠組みに含めます。共同管理の条件は、昨日ご提案いただいた通りで。ただし——」
「ただし?」
「南の商船が甕津港を使用する際の税率について、別途協議させていただきたい」
「もちろん。税率の詳細は後日の実務協議で」
握手には至らなかったが、合意の骨格が固まった。南は封鎖を解除し、代わりに港湾利権を得る。鳳家は塩と薬草の供給を回復し、南にも限定的な穀物を供給する。互いが互いを必要とする関係——それが、この合意の本質だ。
(あとは——朝廷を落とすだけ)
陳海門が部屋を出ていった後、暁風が口を開いた。
「あの書面——北との合意の写しだと言ったが。あれは本物か」
麗華は振り返り、微笑んだ。
「本物ですよ」
「だが——あの書面に書かれていた供給量は、哈赤と合意した数字とは少し違っていなかったか」
暁風の観察力は侮れない。数字の微妙な差異を、あの一瞬の閲覧で見抜いていた。
「よく見ていますね、暁風殿」
「数字を盛ったのか」
「盛ったというか……北への供給の『上限値』を記載したのです。実際の合意は『下限値』ですが、書面には上限が書いてある。嘘ではありませんが——南が見れば、北に食糧が全量流れるように読める」
暁風が腕を組んだ。
「つまり——南を焦らせるための書面だったのか」
「ええ。南に穀物がゼロになると思わせれば、封鎖解除を急がせられる。実際にはゼロにはしませんが」
「……あんたは恐ろしい女だ」
「何度も言われます。でも——嘘はついていないわ。書面の数字は正確です。ただ読み方が、人によって変わるだけ」
暁風は溜息をついた。
「俺には一生できない芸当だ」
「だから私がやるのです。あなたは——剣でいい」
「剣しかない男で悪いな」
「悪くありません。剣がなければ、この交渉の場に座ることすらできませんから」
暁風が目を逸らした。褒められるのが苦手なのは変わらない。
「あとは朝廷を落とすだけです」
「朝廷の李明倫は——真面目な男だ。趙文昌とは違う」
「ええ。真面目な人間は、正しい論理に弱い。明日の全体会議で、全てを決めます」
麗華は窓の外を見た。冬の空は高く、雲ひとつない。澄んだ青空が、鳳凰領の山並みの向こうまで広がっている。
(外交の出口が見えてきた。あとは——趙文昌の裏の動きが、表に出る前に合意を成立させること。時間との勝負だ)
麗華は窓から目を離し、執務卓に戻った。明日の全体会議のシナリオを最終確認する。
合意文書の草案を広げた。一条ずつ、文言を確認していく。「食糧供給量」「不可侵」「封鎖解除」「港湾共同管理」「自治権」「名誉回復」——六つの柱が、三者の利害を織り込んだ形で並んでいる。
(どの一つが欠けても、全体が崩れる。六本の柱が支え合う構造。——美しくはあるが、脆くもある)
春蘭が部屋に戻ってきた。
「お嬢様。南の使節団から動きはありませんでした。趙文昌の手の者は——暁風殿が追い払って以来、姿を見せていません」
「追い払われたのではなく、隠れただけかもしれないわ」
「用心は怠りません」
「ありがとう。——春蘭、今夜はもう休んで。明日は長い一日になるわ」
「お嬢様こそ。お肌に響きますよ」
「余計なお世話よ」
春蘭が笑って出ていった。
一人になった執務室で、麗華は合意文書の草案に最後の一行を書き加えた。筆先が紙の上を滑り、流麗な筆跡が一行の文を刻む。
「——本合意は、全ての署名者が食卓を共にした上で発効する」
(文書だけの合意ではなく、食卓を共にした合意。書面は破れても、共に食べた記憶は消えない。——それが、私なりの外交のやり方)
筆を置いて、灯火を消した。
明日。六日間の外交戦が、決着する。




