盤上の駒
夜。麗華は宿舎の自室で、春蘭と最後の戦略会議に入った。
卓の上に帳面と地図。その傍らに胡麻団子が二つ、小皿に乗っている。
「お嬢様。甘いものを」
「ありがとう、春蘭。頭が煮詰まっていたところよ」
麗華は胡麻団子を一つ手に取った。外側の胡麻が香ばしく、中の餡は滑らかな黒胡麻。噛むとごまの風味が口の中に広がる。鳳凰領の胡麻は粒が大きく、炒ると香りが格段に良い。
「さて。状況を整理しましょう」
麗華は帳面を広げた。
「北は食糧供給で合意。南は封鎖の段階的解除と港湾利権の共同管理で前向き。朝廷は鳳家の条件受諾に傾いている。——三者とも、追い詰められた」
「はい。あとは出口を示すだけです」
「その出口に——何を置くか」
春蘭が麗華の目を見た。
「出口に何を置くのです、お嬢様」
麗華は胡麻団子を食べ終え、指先を拭いた。
「食卓よ」
「食卓?」
「明日の全体会議で最終合意に持ち込む。そして合意の直後に——全員が同じ食卓につく。食事を共にすることが、文書以上の信頼になる」
春蘭が小さく唸った。
「食事を共にする、か。お嬢様らしい締め方ですね」
「書面の合意は破られることがある。でも——同じ釜の飯を食った記憶は、簡単には消えない」
(少なくとも、すぐには裏切れなくなる。人は一緒に食事をした相手を、完全な敵とは見なしにくいものよ)
春蘭が帳面をめくった。
「問題は趙文昌です。南の陳海門との密会は合計三回確認されています。内容までは掴めていませんが——何らかの裏取引が進行している可能性があります」
「ええ。趙文昌が表舞台から消えていないのが気になるわ」
「お嬢様。正面の外交が成功しても、裏で趙文昌が別の手を打っていれば——」
「分かっているわ。だからこそ、明日の合意は急ぐ。合意が成立してしまえば、趙文昌が裏で何を企んでいても、公式の枠組みを覆すのは難しくなる」
麗華は地図を指で辿った。鳳凰領、帝都、北の草原、南の港町。四つの点を結ぶ線が、明日の合意で正式な交易路になる。
「春蘭。明日の宴席の献立を確認して。四つの勢力の食文化を全て取り入れた料理にするわ。北の羊肉、南の海鮮、瑛朝の穀物、鳳凰領の野菜。全てが一つの卓に乗る」
「承知しました。厨房には先ほど指示を出してあります」
「さすが。抜かりないわね」
「お嬢様の侍女ですから」
春蘭が微笑んだ。麗華も微笑み返した。主従の間に流れる、長い信頼の空気だ。
「もう一つ」
「はい」
「暁風殿の様子が——少しおかしいのよ」
春蘭の眉が上がった。
「おかしい、とは」
「昨夜の求婚騒ぎの後から、目を合わせてくれない。会話も必要最低限で——壁を作っている感じがする」
春蘭がにやりと笑った。
「それは——おかしいのではなく、単に動揺しているのでは?」
「動揺?」
「求婚を聞いて動揺する男。——お嬢様には心当たりがないのですか」
麗華の頬がわずかに熱くなった。
「春蘭。今は外交の話をしているのよ」
「はいはい。外交の話ですね。では外交的に申し上げますと——暁風殿の動揺を放置すると、明日の会議で護衛の質に影響が出る可能性があります。外交的に、ご対処をお勧めします」
「……あなた、絶対楽しんでいるでしょう」
「まさか。忠実な侍女としての進言です」
春蘭は帳面を閉じ、一礼して部屋を出ていった。
一人になった麗華は、残りの胡麻団子を見つめた。
(暁風殿が動揺している。求婚を聞いて。——それはつまり)
心臓がまた跳ねた。
(今は外交に集中しなさい、鳳麗華。明日が正念場なのだから)
そう自分に言い聞かせて、帳面を広げ直した。
明日の全体会議。三者から同時に合意を引き出す最後の一手。
全ての駒が揃った。あとは——盤の上に並べるだけ。
「さて。最後の一手を」
麗華は呟いて、筆を取った。明日の交渉シナリオを仕上げるために。
胡麻団子の甘い余韻が口に残っていた。春蘭が選んでくれた菓子は、いつも麗華の好みを外さない。
(信頼できる人がいる。それだけで——戦える)
帳面に書き込んでいくうちに、外交の全体像が浮かび上がってきた。
北には食糧を渡す。南には封鎖を解かせる。朝廷には条件を呑ませる。——三者全てが譲歩しなければ、均衡は成り立たない。そしてその均衡の中央に座るのが、鳳家だ。
だがこの構造には弱点がある。
(鳳家が倒れれば——全てが崩壊する。食糧の供給が止まれば、北は再び南下し、南は封鎖を再開し、朝廷は混乱する。私が——鳳凰領が、一つの支点になっている。その重さが)
筆が止まった。
(一人で支えてはいけない。春蘭がいる。翠微がいる。暁風殿がいる。——でも、食糧を生産できるのは鳳凰領だけ。その現実は変わらない)
窓の外を見た。月が出ていた。白い月が、迎賓館の瓦屋根を照らしている。
(明日の会議が終われば——鳳凰領に帰れる。翠微の顔が見たい。畑の様子を確認したい。——そして)
暁風の顔が浮かんだ。求婚騒ぎの後から、わずかに距離が変わった関係。何が変わったのかは——まだ名前をつけられない。
(今は、明日に集中しなさい)
帳面の交渉シナリオを仕上げた。筆を置き、墨が乾くのを待つ。
ふと、窓の外に人影が動いた。
暁風だ。迎賓館の中庭を巡回している。夜間の警備は暁風が自ら買って出ていた。他の護衛兵には任せず、自分の目で安全を確認する——暁風らしい実直さだ。
月明かりの下で、暁風の輪郭が浮かび上がる。長身の影が庭を横切り、東棟の方へ歩いていく。背筋が真っ直ぐで、歩みに迷いがない。
(あの人がいるから——私は安心して策を練れる。外の安全は暁風殿が守り、内の情報は春蘭が集め、私は——全体を組み立てる)
暁風の影が東棟の角を曲がり、見えなくなった。
麗華は帳面を閉じ、灯火の芯を低くした。
(明日——全てが決まる。成功すれば、鳳凰領は安泰になる)
失敗の可能性は考えない。考えても仕方がない。できることは全てやった。
筆を走らせながら、麗華は微笑んだ。




