求婚
その夜の宴席で、事件は起きた。
三日目の宴は、各国が順番に主催する形式の最後——北の北燕が仕切る番だった。
羊肉の丸焼きが卓の中央に鎮座し、乳酒の甕が惜しみなく並ぶ。遊牧民の宴は豪快だ。肉を手で千切り、酒を椀で呷る。北燕の使者たちは上機嫌で歌い、杯を交わしていた。炎に炙られた羊肉の脂が滴り、肉の焼ける音と香りが広間を満たしている。
麗華は端正な所作で乳酒を口に含んだ。酸味と甘味が混じる独特の風味だ。草原で育った馬の乳を発酵させたもので、度数は低いが後から効く。口当たりは滑らかで、喉を通ると胃の奥がじんわりと温まる。
暁風は隣で黙々と羊肉を食べている。北の肉は好みに合うらしく、いつもより箸——いや、手の動きが速い。骨ごと掴んで齧りつく所作が板についてきた。
「暁風殿。食べすぎでは?」
「武人は食える時に食う。明日の飯が保証されていないのが戦場だ」
「ここは戦場ではありませんけれど」
「外交は戦場と変わらん。あんたが一番よく知っているだろう」
麗華は肩をすくめた。否定はしない。
宴もたけなわの頃、哈赤が杯を高く掲げた。乳酒が杯の縁から零れ、哈赤の太い指を伝って滴った。
「今宵は良い宴だ! 北と南と瑛朝、そして鳳家——四つの国が一つの卓を囲んでいる。これを祝おうではないか!」
歓声が上がる。杯が打ち合わされ、乳酒が飛沫を上げた。
哈赤がさらに声を張った。宴の喧騒を貫く、草原に響くような太い声だ。
「そして——我が大王からの提案がある!」
場の空気が変わった。宴の喧騒が一瞬で静まり、各国の代表が哈赤を注視した。笑い声が止み、杯を持つ手が宙に止まる。
「鳳麗華殿。あなたは聡明であり、美しく、そして食糧を治める力を持つ。我が大王は——婚姻による同盟を提案する。鳳家の血と術を、我が北燕に迎えたい」
完全な沈黙が落ちた。
乳酒の甕から酒が零れる音だけが、静寂に滴った。
麗華は微笑みを保ったまま、内心で素早く計算を走らせた。
(求婚。いえ、これは同盟の提案ね。鳳家の地養術を北に取り込みたい——政治的には合理的な提案だけれど。しかも宴の場で公に言うことで、断りにくくする計算がある。哈赤は素朴に見えて、案外したたかだわ)
南の陳海門が扇子を止めていた。朝廷の李明倫が蒼白になっている。鳳家が北の遊牧国家と婚姻同盟を結べば、瑛朝は最大の食糧供給源を永久に失うことになる。
そして——暁風。
麗華は視界の端で暁風を見た。
暁風の手が止まっていた。杯を持ち上げかけたまま、中途半端な高さで固まっている。顔は無表情だが、顎の筋肉がわずかに強張っていた。杯を持つ指の関節が白くなるほど、力が入っている。
(暁風殿——?)
一瞬の観察を終え、麗華は哈赤に向き直った。
「哈赤殿。大王のお心遣い、まことに光栄です」
声は穏やかで、微笑みは崩れていない。
「しかし——お断り申し上げます」
哈赤の眉が動いた。「なぜだ」と目が語っている。
「私の血筋は、この国の土に根を張っております。鳳凰領の霊脈は鳳家と共にあり、土地を離れれば地養術は力を失います。私が北に嫁げば、鳳凰領の実りは衰え——結果として、北にお渡しする食糧もなくなります」
(半分は本当で、半分は方便。地養術は土地から離れても使えるけれど、それを教える義理はないわ。——大事なのは、断る理由が相手の利益に繋がっていること。私が嫁がない方が北にとっても得だ、と思わせること)
「むう……。そういうことか」
哈赤は不満そうだったが、食糧供給が途絶えるリスクは理解したようだ。太い腕を組み、唸りながらも引き下がった。
「大王には俺から伝える。残念だが——仕方がないな」
「食糧の供給に関しては、婚姻がなくとも誠意をもって対応いたします。先ほどの協定の通りに」
「……わかった。その言葉を信じよう」
場の緊張が和らいだ。宴は再び賑やかさを取り戻し、杯が交わされ始めた。誰もが安堵の息をつき、羊肉に手を伸ばしている。
麗華はほっと息をつきかけて——暁風の顔を見た。
暁風は杯を卓に戻していた。酒に口をつけた形跡がない。顔は前を向いているが、目が合わない。意識的に視線を逸らしているわけではなく——どこか遠くを見ている。
(さっきから——一度もこちらを見ていない)
「暁風殿」
「……何だ」
「お酒、召し上がらないのですか」
「飲む気分じゃない」
言葉が短い。普段の暁風も寡黙だが、今夜は別の種類の寡黙さだった。壁を作っている、というよりも——何かを押し殺している。普段の寡黙が「言葉を持たない静けさ」なら、今夜のそれは「言葉を飲み込んだ静けさ」だ。
(あの反応は……何だったのだろう)
求婚の提案が出た瞬間の、暁風の固まった手。杯を持ったまま動けなかった一瞬。あれは——驚きだけでは説明がつかない。
(もしかして——)
その考えを最後まで辿る前に、麗華は首を振った。
(いいえ。今はそんなことを考えている場合ではない。外交の真っ最中なのだから)
宴が終わり、各国の代表が宿舎に引き上げた。
麗華は自室に戻り、寝台に腰を下ろした。春蘭は情報収集に出ていて、部屋は一人きりだ。
窓の外に月が出ていた。冬の月は白く冷たい。月光が窓から差し込み、寝台の端に白い四角を描いている。
麗華は両手を膝の上に置き、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは——暁風の固まった手。
(あの瞬間、暁風殿は何を考えていたのだろう)
求婚を聞いた時、暁風の反応は明らかに通常と違った。監視役として任務上の心配をしたのなら、顔に出す前に理性で処理できたはずだ。暁風は感情を隠すのが下手だが、任務に関する判断は冷静にできる男だ。
あれは——任務とは別の感情。
(嫉妬? まさか。暁風殿が?)
心臓がどくりと跳ねた。
馬鹿馬鹿しい、と自分に言い聞かせた。外交の最中に、こんなことを考えている場合ではない。明日は南との詰めの交渉がある。朝廷への揺さぶりも仕掛けなければならない。頭を使うべきことは山ほどある。
だが——目を閉じると、暁風の固い横顔が浮かぶ。杯を持ったまま動かない手。白くなった指の関節。視線を逸らした横顔の、顎の筋肉の強張り。
(杯を持ったまま、動けなかったあの手。あれは——)
麗華は寝台に横たわり、天井を見つめた。
(何を考えているの、私は。まったく)
眠りに落ちるまで、暁風の横顔が消えなかった。
そして——麗華自身の心臓が跳ねたことについて、彼女はまだ名前をつけられずにいた。




