南の計算
南の海洋国家・西涼との交渉は、初手から空気が違った。
同じ東棟の一室。だが北との交渉で感じた切迫さはなく、代わりに油の乗った商人特有の余裕が漂っている。部屋に入った瞬間、麗華はその違いを肌で感じた。陳海門は扇子を畳んだり開いたりしながら、慇懃に微笑んでいた。扇子の骨は象牙細工で、南の裕福さを無言で主張している。
「鳳麗華殿。お噂はかねがね。瑛朝の食糧を一手に握る令嬢が、外交の場にお出ましとは——いやはや、時代は変わりましたな」
「お褒めにあずかり光栄です、陳殿。西涼の商才は大陸に轟いておりますわ」
慇懃な挨拶の応酬。互いに笑みを浮かべながら、言葉の裏で値踏みをしている。後宮と商館——場は違えど、笑顔の下で刃を交える作法は同じだ。
陳海門が先に本題を切り出した。
「海上封鎖の件は、まことに遺憾でございます。しかしながら、瑛朝が南海の交易秩序を乱したことが原因でしてな。我が国としては——」
「止めていただけませんか」
麗華が穏やかに遮った。声は柔らかいが、切り込む角度は鋭い。
陳海門の扇子が止まった。開いたままの扇子の向こうに、意外そうな目が覗いている。
「何をでしょう」
「前置きを。お互い忙しい身です。率直に参りましょう」
(この手の商人は、前置きで相手を疲弊させるのが常套手段。長々と話を聞いているうちに相手のペースに乗せられる。付き合う必要はないわ)
麗華は卓に両手を揃えて置いた。指先まで真っ直ぐ揃えた所作は、後宮仕込みの品格を纏っている。
「陳殿。あなたが本当に欲しいのは、食糧ではありませんね」
「おや。何をもってそのように」
「昨夜の歓迎宴で、あなたは鳳家の白飯を三口しか召し上がらなかった。飢えている方の食べ方ではありません。そして——あなたの使節団が持参した食材に穀物が一粒もないことを、私の侍女が確認しています」
陳海門の目が細くなった。扇子を閉じ、膝の上に置いた。象牙の骨が膝の布に当たって、小さな音を立てた。
「穀物を持参しなかったのは——」
「穀物がないからです。南の本国でも穀物は枯渇している。にもかかわらず、あなたは食糧交渉にさほど熱心ではない。つまり食糧は二の次。本命は別にある」
沈黙が落ちた。窓の外で枯れ枝が風に揺れ、影が壁を這った。
暁風が麗華の隣で腕を組んでいる。武人の威圧感が、商人の余裕をじわりと削っている。暁風は一言も発していないが、その存在そのものが圧になっていた。
陳海門がゆっくりと笑った。今度は商人の営業笑いではなく、獲物を見定めた猟師の笑みだ。
「なるほど。鳳家の令嬢は聡明でいらっしゃる」
「港が欲しいのでしょう」
扇子が卓の上に落ちた。陳海門が手を伸ばしかけて、止めた。扇子を拾うという日常動作すら忘れるほどの衝撃が、その顔に走った。
「……なぜそれを」
「南は海洋国家です。交易が国の命脈。しかし荒地化で交易品の穀物が消え、商路が痩せている。穀物に代わる交易の柱が必要——それが港湾利権です。瑛朝東海岸の甕津港を押さえれば、内海の交易路を支配できる」
陳海門は背もたれに身を預け、長い息を吐いた。商人の仮面が一瞬だけ外れ、その下に疲労した顔が覗いた。目の下に隈があり、頬がこけている。華やかな衣の下で、この男も追い詰められている。
「我が国も——楽ではないのです。穀物が消えれば交易品がなくなり、交易品がなくなれば港が死ぬ。港が死ねば国が死ぬ。海洋国家の宿命ですな」
「お気持ちはわかります」
「では——取引の形を変えましょう、とおっしゃるか」
「ええ。食糧と港湾利権を別々に交渉するのではなく——一つの枠組みにまとめます」
麗華は卓の上に指で円を描いた。指先が滑らかに弧を描き、目に見えない地図が卓の上に浮かぶ。
「鳳家は南に穀物を供給する。ただし直接ではなく、甕津港を経由する交易ルートとして。南は甕津港の使用権を得るが、独占ではなく共同管理。港の運営収益を瑛朝と分配する」
陳海門が前のめりになった。
「共同管理?」
「独占を求めれば朝廷が絶対に呑みません。しかし共同管理なら——朝廷も収益を得られる。南も港を使える。そして穀物は港を通じて南に流れる。三者が利を得る形です」
(独占は敵を作る。共有は味方を作る。——商人なら、この理屈はわかるはず)
陳海門が顎を撫でた。扇子を拾い上げ、ぱちりと開いた。考える時の癖なのだろう。扇子の開閉速度が、思考の速度を反映していた。
「面白い。しかし朝廷が呑むかどうか——」
「それは私が交渉します」
「あなたが?」
「ええ。私は朝廷の廃妃ですが、食糧を握っています。朝廷に呑ませる力は——お約束します」
陳海門は麗華の目を見つめた。扇子の向こうに見える目が、初めて真剣な色を帯びた。
「鳳麗華殿。あなたは——恐ろしい方だ」
「恐ろしい? 私はただ、全員がお腹いっぱいになれる方法を考えているだけですから」
(全員がお腹いっぱい、は言い過ぎね。正確には、全員が最低限は食べられて、かつ私の条件が通る方法、よ)
陳海門が笑った。今度は商人の笑みではなく、駆け引きの相手を認めた者の笑みだった。
「よろしい。南としては前向きに検討する。ただし一つ、確認させていただきたい」
「何でしょう」
「あなたは北にも食糧を出すと聞いた。南にも出す。瑛朝にも出す。——そんなに穀物があるのですか」
麗華は微笑みを崩さなかった。
「あると思わせるのも、ないと思わせるのも——外交の一部ですから」
陳海門が扇子で顔を扇いだ。
「ますます恐ろしい」
交渉は一段落した。
部屋を出た麗華は、回廊で暁風と二人きりになった。冬の回廊に午後の日差しが斜めに差し込み、柱の影が長く伸びている。
「暁風殿。南は落とせそうです」
「ああ。だが——あの男、最後の質問が気になった」
「穀物の量ですね」
「実際のところ——足りるのか」
麗華は一瞬だけ目を伏せた。睫が頬に影を落とす。
「足りません」
暁風が足を止めた。
「三方面全てに食糧を供給する余裕は、鳳凰領にはないのです。だからこそ——出し方を工夫する。全量を一ヶ所に流すのではなく、段階的に、条件付きで。穀物が有限だからこそ、その配分が権力になる」
「……囲碁だな」
「ええ。石の数は少ないけれど、置き方一つで盤面が変わります」
暁風が腕を組んで考え込んだ。武人には不慣れな思考だが、麗華の論理を理解しようとする真摯さがある。眉間に皺を寄せ、言葉を噛みしめている。
「あんたの頭の中は——俺には半分も見えない」
「半分で十分ですよ。残りの半分は、あなたの剣が守ってくれますから」
暁風が一瞬きょとんとした顔をして——目を逸らした。耳の先が赤い。
(あら。照れたのかしら)
麗華は微笑みを噛み殺して、先を歩いた。
南との交渉は纏まりそうだ。しかし——麗華はまだ最大のカードを切っていなかった。
(残るは朝廷。そして朝廷の裏にいる趙文昌。——さて、次の一手は)




