北との密談
北との個別交渉は、迎賓館の東棟で行われた。
小さな部屋に卓が一つ。麗華と暁風が片側に、北の使者・哈赤ともう一人の副官が反対側に座った。窓の外では冬枯れの枝が風に揺れ、乾いた葉がかさかさと音を立てている。
交渉の場に、麗華は料理を用意させていた。
羊肉の煮込みだ。ただし北の流儀とは少し違う。骨つきの羊肉を塩と山椒で煮て、仕上げに薄切りの大根を添えた。北の遊牧民が慣れ親しんだ味を基調にしながら、鳳凰領の食材で奥行きを加えたものだ。鍋から立ちのぼる湯気が部屋を温め、羊の脂と山椒の混じった香りが四人を包んでいる。
哈赤が卓の上の鍋を見て、太い眉を上げた。
「これは——羊か」
「ええ。先日鳳凰領でお召し上がりいただいた折、羊肉がお好きだと伺いましたので。北の味付けに近づけてみました」
哈赤が匙で一口掬い、口に入れた。咀嚼する頬が動き、目を閉じた。太い首が微かに傾き、味を確かめるように顎が動く。
「……故郷の味に、似ている。だが——うまい。何かが違う」
「大根です。鳳凰領の畑で育てた冬大根を薄く切って加えました。羊の脂を吸って甘くなります」
「大根か。我が国では根菜が育たん。草原の土は浅くてな。石の下はすぐ岩だ」
哈赤はもう一口食べ、深く頷いた。食事をしながらの交渉——麗華が意図的に設計した場だ。食で敬意を示し、相手の心を開いてから本題に入る。食卓を共にすることは、言葉以上の信頼の表現になる。
暁風も黙々と羊肉を食べている。骨ごと掴んで肉を齧る所作が、遊牧民の食べ方に近い。軍人として北の遊牧民の武勇を知っている暁風が同席していることは、哈赤にとって安心材料のはずだ。武人同士の無言の了解がある。剣を持つ者同士は、言葉を交わさなくても互いの力量が分かる。
「哈赤殿。お国の事情を、改めてお聞かせ願えますか」
麗華が切り出すと、哈赤の顔が曇った。匙を止め、大きな掌で顔を擦った。
「……正直に言う。我が民は飢えている」
匙を置き、哈赤は両手を卓の上に乗せた。分厚い掌だ。戦で刀を振るい、馬を御してきた手。革のように硬い皮膚に、古い傷跡が何本も走っている。その手が、今はわずかに震えていた。
「十年前までは草原に草が生えていた。家畜を放てば勝手に太った。乳を搾り、肉を食い、革を纏う——それが我が民の暮らしだった」
「荒地化が——」
「ああ。草が枯れた。最初は北の端からだった。それが年ごとに南に下がり、今では草原の半分が砂と石の荒野だ。風が吹けば砂が舞い、目も開けられん」
哈赤の声が低くなった。戦場で何百もの兵を率いた男の声が、今は掠れている。
「家畜が倒れた。羊が死に、馬が痩せた。子供が——」
言葉が途切れた。哈赤は唇を噛み、大きく息を吸った。胸が大きく上下する。
「子供が飢えている。草を煮て食わせている。煮ても味はしない。栄養もない。それでも——食わせるものが他にない」
暁風の箸が止まった。軍人として戦場を知る男の目に、痛みが走った。飢えた子供の話は——武人にとって最も堪える類の話だ。
麗華は黙って聞いていた。哈赤の言葉を遮らない。飢えを語る者の声を、最後まで受け止める。それが食を扱う者の礼儀だと思うから。食の力を知る者は、食の不在の重みも知らなければならない。
「それで——南下を?」
「強硬派の烏蘭が主導している。奪えるものがあるなら奪え、と。剣で畑を奪い、力で食糧を手に入れる——それが烏蘭のやり方だ。だが俺は——戦で食えるのは一時だ。戦が終われば、また飢える」
「だから外交を選んだ」
「ああ。食糧があるのはここだけだと聞いた。だから来た。手ぶらで帰れば烏蘭に首を刎ねられる。だが——戦で奪うより、話して得た方が長持ちする」
麗華は静かに頷いた。
(敵にも守りたい民がいる。飢えた子供がいる。——これは侵略ではない。生存だ)
「哈赤殿。鳳家は食糧の供給に前向きです」
哈赤の目が見開かれた。太い眉の下の小さな目が、信じられないという色を浮かべている。
「本当か」
「条件があります。一つ、北辺の不可侵。鳳凰領と瑛朝の北辺地域に対する軍事行動を停止すること。二つ、供給量と期間は段階的に決めること。一度に全てを渡す余裕はありません。三つ——」
麗華は一呼吸置いた。
「強硬派を抑えること。烏蘭将軍の暴走を、哈赤殿が止めてください」
哈赤が唸った。太い腕を組み、首を傾げる。
「烏蘭を抑えるには——食糧を持ち帰るしかない。手ぶらで帰れば、俺の首が飛ぶ」
「ですから、第一便の食糧は早急にお渡しします。量は限られますが、まず子供たちが食べられるだけの穀物を。それが哈赤殿の手土産になります」
哈赤は麗華の目を見つめた。遊牧民の使者と、廃妃の令嬢。立場も文化も違う二人が、一つの卓を挟んで対峙している。
「……なぜだ」
「なぜ、とは」
「なぜ俺たちに食糧を出す。瑛朝の廃妃だろう、あんたは。自分の国すら敵に回しているのに、なぜ北の蛮族に飯を食わせる」
麗華は微笑んだ。
「飢えた子供に蛮族も文明人もありませんわ。お腹が空いているなら、食べさせる。それだけのことです」
(それに——飢えた民を放置すれば、いずれ戦になる。戦になれば鳳凰領も巻き込まれる。食糧で和平を買うほうが、血で買うより安い。情と計算は矛盾しない——両方あるから、正しい判断ができるのよ)
内心の計算は口にしない。だが哈赤には、麗華の言葉の裏にある誠意と計算の両方が伝わったようだった。遊牧民は言葉の裏を読む。草原で生き延びるために必要な知恵だ。
北の使者は大きく頷いた。
「いいだろう。大枠は合意だ。——詳細は全体会議で詰めよう」
「ええ。全体会議で」
交渉は穏やかに終わった。
哈赤が立ち上がりかけ、ふと鍋の中を覗いた。大根が羊の脂を吸って半透明になり、煮汁の中でとろりと揺れている。
「この羊肉——もう一杯もらえるか」
麗華は微笑んだ。
「どうぞ。お代わりはいくらでも」
哈赤が照れくさそうに匙を取った。戦で鍛えた武人の顔が、食事をする子供のように緩んでいた。
暁風が小さく「旨い」と呟いた。それは羊肉の感想でもあり——この交渉そのものの感想でもあるように聞こえた。
部屋を出た後、回廊を歩きながら暁風が口を開いた。
「北との合意は第一歩だ。だが——」
「ええ。南が残っています」
「南の陳海門は食えない男だ。宴席での顔は笑っていたが、目が笑っていなかった」
「見ていたのですね」
「見るのは得意だ。言葉にするのが苦手なだけで」
麗華は小さく笑った。
(暁風殿の観察力は、私の情報網に劣らない。言葉にしないだけで、全部見えている。この人の目は——信頼できる)
「明日、南との交渉に入ります。——少し、作戦を練りましょうか」
「ああ。飯を食いながら」
「いつも食事ですね、あなたは」
「腹が減っては策も練れん」
二人は宿舎に向かった。冬の日差しが回廊の柱に長い影を落としている。並んで歩く二人の影が、石畳の上で重なりかけては離れた。
北との合意は第一歩。しかし真の難関は——南と、そして南の裏にいる趙文昌だ。




