情報は食前酒
翌朝、麗華は春蘭の報告を聞いた。
宿舎に充てられた離れの一室。朝の光が障子越しに柔らかく差し込む中、春蘭は帳面を広げて淡々と語った。
「昨夜のうちに掴めた情報をまとめます」
春蘭の情報収集は、相変わらず速い。昨夜の歓迎宴の間に、各国の随行員や使用人に接触し、必要な情報を引き出してきたのだ。
「まず北の北燕。使者の哈赤殿は武人肌で駆け引きが苦手。本国の大王は食糧確保を最優先としており、それ以外の条件には柔軟です。ただし——北の軍内に強硬派がおり、外交で食糧を得られなければ武力に訴える派閥がある」
「強硬派の名前は?」
「烏蘭という将軍です。哈赤殿とは対立関係にあるようで、外交の失敗は即ち哈赤殿の失脚を意味します」
(つまり哈赤殿は追い詰められている。食糧を持ち帰れなければ、自分の首が飛ぶ)
麗華は頷いた。追い詰められた交渉相手は御しやすいが、同時に暴発の危険もある。
「次に南の西涼。代表の陳海門殿は商会の元締めでもあります。南の王室は海上貿易で栄えていましたが、荒地化の影響で交易品の穀物が枯渇し、商路が痩せている。彼らが本当に欲しいのは——」
「港湾利権、でしょう?」
「さすがお嬢様。その通りです。瑛朝の東海岸にある甕津港の独占使用権。南にとって穀物は二の次で、瑛朝沿岸の港を押さえれば内海の交易路を支配できる」
「食糧問題を出汁にして、利権を取りに来ている。商人らしい発想ね」
(だが、その出汁を煮詰めるのは私の役目よ)
春蘭が帳面をめくった。
「それから——昨夜、南の陳海門殿が回廊で密会していた相手ですが」
「やはり趙文昌の手の者?」
「はい。朝廷の使節団には含まれていない人物ですが、瀝陽の宿に趙文昌派の官僚が二名、非公式に滞在しています。昨夜の密会はそのうちの一人でした」
麗華は朝茶の杯を持ち上げ、湯気の向こうに視線を落とした。
(趙文昌が南と裏で繋がっている。皇帝が正式な使節団から趙文昌を外したのに、宰相は別の経路で手を伸ばしてきた)
「春蘭。南の使節団の厨房は覗けた?」
「ええ。食材のリストもあります」
春蘭が別の帳面を差し出した。南の使節団が持参した食材の一覧だ。乾燥海老、塩蔵魚、椰子油、砂糖、香辛料——そして大量の干し果実。
「穀物がない」
「はい。穀物は一粒も持っていません。つまり南の本国でも穀物は枯渇しています。海産物と果実と砂糖はあるが、主食がない」
(食糧で困っていないふりをしているけれど、厨房を見れば嘘がわかる。主食を持ち込めないほど穀物が不足している)
「情報は食前酒よ、春蘭。本番は今日からです」
春蘭が帳面を閉じた。
「お嬢様。朝廷の使節団についても一つ」
「何かしら」
「李明倫殿は皇帝の直接の指名で使者に選ばれています。科挙の成績は上位ですが、政治的な後ろ盾がない。つまり——派閥の色がついていない、まっさらな人物です」
(皇帝が、趙文昌にも蘇家にも染まっていない人間を選んだ。承乾が自分の判断で動いている証拠ね)
麗華は杯の茶を啜った。銀針白毫の上品な甘みが舌の上で広がる。暁風が遠方から持ち帰ってくれた茶葉だ。
その茶を飲みながら、麗華は頭の中で全体図を描いていた。
北が欲しいのは食糧。命に関わる切実な欲求。
南が欲しいのは港湾利権。商売に関わる計算高い欲求。
朝廷が守りたいのは体面。国の威信に関わるプライドの欲求。
そして鳳家が持っているのは——食糧。
(三者全てに食糧を出す余裕はない。限られた穀物をどう配分するかが、この外交の全て)
「北には食糧を出す。命がかかっている以上、ここは誠意を見せるべきよ」
「南には?」
「南には別のものを。食糧ではなく——恐怖を」
春蘭が目を細めた。
「恐怖、ですか」
「『鳳家の食糧が北に全量流れたら、南は永遠に穀物を手に入れられない』という恐怖よ。食糧を直接渡すのではなく、渡さないかもしれないという可能性で揺さぶる」
「なるほど。そして朝廷には?」
「朝廷には——恐怖を超える恐怖を。『鳳家が北や南と単独で手を結べば、朝廷は完全に蚊帳の外になる』という最悪の想像をさせる」
春蘭が小さく息を吐いた。
「お嬢様。交渉というより——これは囲碁ですね」
「ええ。石の置き方一つで、盤面の全てが変わる。そして今、石を持っているのは私たちだけよ」
麗華は杯を卓に戻した。茶の残り香が微かに漂う。
「明日、まず北との個別交渉に入ります。春蘭、南の動きを引き続き監視して。特に趙文昌の手の者との接触は——」
「抜かりなく」
春蘭が一礼して部屋を出ていった。
一人になった麗華は窓辺に立ち、中庭を見下ろした。迎賓館の庭には荒れた池があり、その向こうに各国の宿舎が見える。
(交渉は始まる前に七割が決まる。情報を制する者が、食卓を制する)
中庭を挟んだ向かい側の窓に、南の代表・陳海門の姿がちらりと見えた。扇子を弄びながら、こちらを見ている——ような気がした。
麗華は微笑みを返した。
窓辺を離れ、卓に戻った。
朝食の膳がまだ残っている。鳳凰領から持参した白飯と漬物。簡素だが、米の味は確かだ。迎賓館の厨房が出す粥とは格が違う。
冷めた白飯を一口食べた。粒の一つひとつに甘みがある。地養術で育てた米は、冷めても美味しい。
(この米が——外交の武器になる。味を知れば、誰もが欲しくなる。北の使者が歓迎宴で目を見開いたのは——この味に出会ったからだ)
食べ終えて箸を置いた。
暁風が廊下を歩いてくる足音が聞こえた。軍人の足音は重く、規則正しい。
「麗華殿。朝の巡回を終えた。迎賓館の警備体制を確認したが——東棟の裏に監視の死角がある」
「ありがとうございます。そこに趙文昌の手の者が潜んでいる可能性は?」
「昨夜追い払ったが、また来るだろう。見張りを置く」
「お願いします」
暁風が頷いて去ろうとし、ふと振り返った。
「飯は食ったか」
「ええ。白飯と漬物を」
「旨かったか」
「もちろん。鳳凰領の米ですから」
「ならいい」
暁風の背中が廊下に消えた。
(「飯は食ったか」。あの人の心配の仕方は、いつも食事から始まる)
麗華は小さく笑った。
(さあ、陳殿。あなたが本当に欲しいものは、もう見えていますよ)




