包囲
暁風は森の中で手勢を三つに分けた。
五名が東から、三名が西から。暁風自身は二名を連れて正面から。
「東と西が所定の位置についたら、鳥の声を三つ。それを合図に動く」
手勢が頷き、音もなく森に散った。冬の枯れ葉が足の下で乾いた音を立てるのを、兵たちは巧みに避けて進んでいく。半年間の巡回で鍛えられた足運びだ。
暁風は灌木の陰に身を沈め、廃屋を観察した。五棟の廃屋は山の斜面に沿って建てられている。石壁と瓦屋根の古い農家だ。長年放棄されていたが、工作員が住みついてからは最低限の補修がなされている。壁の一部は新しい石が嵌められ、屋根の瓦が何枚か入れ替えられていた。
見張りは二名。一人が柵の門に立ち、もう一人が見張り台に登っている。門の見張りは腰に剣を帯び、見張り台の男は弓を持っていた。
廃屋の周囲には——痕跡が散見された。複数の足跡。荷車の轍。革袋や壺を運んだ跡。霊毒の原料を保管している倉庫があるはずだ。地面に残る轍の深さから、相当な重量のものを運び込んでいたことが分かる。
同時刻。
鳳凰領の執務室で、麗華が動いていた。
「春蘭」
「はい」
「蘇家の工作員には連絡員がいるはずです。拠点の工作員と蘇家本体を繋ぐ伝令。暁風殿が拠点を叩いた時、連絡員が蘇家に急報を飛ばす。それを——遮断します」
麗華は執務卓の前に立ち、地図を広げた。指先が地図の上を滑り、山道の位置を次々と指す。
「既に手配しております」
春蘭が地図の三ヶ所に印をつけた。朱墨が正確に山道の要所を示している。
「連絡員が使っている経路はこの三本です。いずれも鳳凰領の外に繋がる山道。それぞれに人を配置し、通行を止めます」
「さすがです。では——工作員が鳳凰領の外に助けを求める手段は」
「ございません。暁風殿が拠点を叩けば、工作員は完全に孤立します」
麗華は頷いた。暁風が物理的に包囲し、春蘭が情報的に孤立させる。武と知の挟撃。二つの力が別々の場所で同時に動き、敵を逃がさない網を織り上げる。
「もう一つ」
麗華が地図の別の場所を指した。鳳凰泉の北側、谷筋が狭まる場所だ。
「蘇家が増援を送る可能性があります。拠点の近くに予備の人員が潜んでいないか——」
「そちらも調査済みです。鳳凰泉の北に小さな洞穴があり、三名ほどの見張りが詰めている模様」
「では別動隊を出します。暁風殿が拠点を叩くのと同時に、別動隊が洞穴を制圧する」
「別動隊の指揮は?」
「あなたにお任せします」
春蘭が一瞬驚いた顔をし、すぐに微笑んだ。侍女頭として麗華に仕えてきた春蘭が、別動隊の指揮を任される。それは情報収集の右腕から、作戦遂行の指揮官への転換を意味する。
「承知いたしました。春蘭の手の者、五名で参ります」
「くれぐれも気をつけて」
「お嬢様こそ。お一人で執務室にいらっしゃるのですから」
「私には翠微がいます」
麗華は窓の外を見た。翠微が農地で地養術の修行をしている。被害区域の浄化を兼ねた実戦訓練だ。朝の光の中で、翠微が大地に手を当てている姿が見える。
春蘭が去った後、麗華は一人で地図を見つめた。
(暁風殿。あなたは今——)
胸に小さな棘が刺さっている。暁風の身を案じる気持ちが、冷静な知略家の仮面の隙間から顔を覗かせる。だが今は——信じて待つしかない。暁風の剣と、春蘭の知略を。
*
鳥の声が三つ響いた。
暁風が動いた。
灌木から飛び出し、柵に向かって走る。足が地面を蹴る音。甲冑の鳴る音。朝の冷気を切り裂いて、暁風の体が柵に迫る。
見張りの男が気づいて叫んだ瞬間、暁風の横を矢が飛んだ。東の配置についた手勢の一人が放った矢が、見張り台の男の肩を射抜いた。弓が落ち、男がよろめく。
門の見張りが剣を抜く。暁風は三歩で間合いを詰め、剣を振り下ろした。金属音。相手の剣を弾き、返す刃で手首を打つ。手首の腱が断たれ、剣が落ちた。
「動くな」
暁風の声は冷たかった。
東と西から手勢が突入した。五棟の廃屋に次々と踏み込んでいく。扉を蹴破る音、怒号、金属が打ち合う音が森に反響した。
中にいた工作員は十二名。寝込みを襲われた者もいれば、既に起きて作業をしていた者もいた。灰色の粉末を壺に詰める作業をしていた男が、壺を倒して逃げようとするのを手勢が取り押さえる。
抵抗した者が五名。暁風の手勢と斬り合いになったが、三十数えるうちに制圧された。
暁風自身は二名を相手にした。一人目が突いてきた剣を払い、踏み込んで肩を斬る。二人目の突きを体を捻って避け、蹴りで倒した。地面に叩きつけられた男が呻く。
将軍の剣は容赦がなかった。だが——殺しはしなかった。
「捕縛しろ。全員だ」
手勢が手早く工作員を縛り上げていく。
暁風は最後の廃屋——一番奥の、他より大きい建物に入った。入口の戸板は内側から閂がかかっていたが、暁風の蹴りで外れた。
中には——壺が並んでいた。
大小合わせて二十以上。蓋をされた壺の中に、灰色の粉末が詰まっている。霊毒の原料だ。部屋の隅には秤と匙が置かれ、粉末を計量して小分けにしていた形跡があった。
暁風は壺の一つの蓋を開け、匂いを嗅いだ。あの金属臭。鳳凰泉で工作員が流し込んだ粉末と同じだ。冷たく、鋭い匂いが鼻腔を刺す。
(これだけの量が——使われていたら)
背筋が冷えた。この部屋にある壺の全てが霊脈に注がれていたら——鳳凰領は終わっていた。
その時、外から声がした。
「将軍、増援が——いえ、春蘭殿の別動隊が先に制圧した模様です。洞穴の見張り三名、全員捕縛」
暁風は小さく息を吐いた。
包囲は完成していた。物理的に囲み、情報的に孤立させ、増援を断ち——完封した。暁風の剣と春蘭の手配が、寸分の狂いなく噛み合った。
廃屋の外に出ると、朝日が森の木々を照らし始めていた。木漏れ日が地面に模様を描き、鳥が一羽、梢で鳴いた。戦いが終わった森に、日常の音が戻りつつある。
手勢が工作員を中庭に並ばせている。縛られた十二名が地面に座らされていた。
暁風は懐に手を入れた。
握り飯がある。麗華が握った飯。鎧の内側で体温に温められた布包みは、戦の前と変わらぬ温もりを保っていた。
戦いが終わった森の中で——暁風は握り飯を取り出し、布を開いた。
塩と梅干しだけの、素朴な握り飯。白い米粒が朝日に輝いている。麗華の手で一粒一粒が丁寧に握られた形が、崩れずに残っていた。
一口、頬張った。
旨い。
冷えた森の中で、麗華が握った飯の味が——温かい。塩の効いた米の甘みが口に広がる。梅干しの酸味が、戦闘で強張った体を解す。噛みしめるたびに、米の甘さが増していく。
「……旨い」
小さく呟いた。
手勢の一人が不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。将軍が戦の後に握り飯を食べて「旨い」と呟く。それだけの光景だ。だがその「旨い」に込められたものの重さを、手勢には知りようもなかった。
暁風は握り飯を食べ終え、手を払った。
(戻る。あの場所に。あの飯を作る女のところに)
朝日の中で、暁風は森を後にした。




