表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

120/130

握り飯と刃

 暁風は夜明け前に起きた。


 甲冑を身につける。鉄紺の軍袍に袖を通し、暗銀色の鱗甲を胸に当て、革紐を締める。一本ずつ、丁寧に。戦の前の支度は、いつも静かだ。肩当てを嵌め、腰に長剣を佩く。背に弓と矢筒を負う。鎧の重みが肩にかかり、体全体に圧がかかる。


 将軍としての支度だ。だが今日——この甲冑は「皇帝の将軍」の鎧ではない。


 一人の人間として戦う鎧だ。


 暁風は鏡に映る自分を見た。禁軍の雲雷紋が肩で光っている。この紋章は皇帝への忠義の証だ。十五の時から肩に背負い続けてきた印。だが今日、この紋章が意味するものは——これまでとは違う。


(忠義は捨てない。だが——忠義の形を、俺自身で決める)


 居室を出た。


 廊下はまだ暗い。足音を殺して歩く。壁に映る自分の影が、甲冑の輪郭を大きく見せていた。


 中庭に出ると、手勢の十名が集まっていた。全員が軽装の戦闘装備を身につけている。息を白く凍らせながら、暁風を待っていた。誰も言葉を発していない。冬の暗闇の中、鎧の金具が微かに鳴る音だけが響いている。


「将軍」


「出るぞ。蘇家の工作員の拠点を叩く」


 手勢が頷いた。この半年間、暁風と共に鳳凰領を巡回し、共に汗を流してきた男たちだ。暁風の命令に——迷いはない。


「これは皇帝陛下の命令ではない」


 暁風は手勢の顔を一人ずつ見た。暗闇の中でも、男たちの目は真っ直ぐに暁風を見返している。


「俺の意志だ。嫌な奴は残れ」


 誰も動かなかった。冬の風が中庭を吹き抜け、旗竿の布がはためく音が聞こえた。


 先頭の兵が口を開いた。


「将軍の意志が俺たちの意志です」


 暁風は頷いた。それ以上の言葉は要らなかった。武人同士の信頼は、言葉ではなく行動で築かれる。半年間の巡回と汗が、今この瞬間の即答になった。


 門に向かう。


 門前に——麗華が立っていた。


 夜明け前の暗がりの中、白い息が麗華の口元から立ちのぼっている。手に白い布包みを持っている。藍染めの交領袍に薄手の上掛けを羽織っただけの装いで、指先が冷気に赤くなっていた。


 暁風は足を止めた。


「……何をしている」


「見送りです」


「まだ暗い。寒いだろう」


「将軍殿のお支度の音が聞こえましたので。甲冑を着る音は——響きますから」


 鉄紺の鱗甲の革紐を締める音。肩当てを嵌める金属音。暗闘の中では、それらの音は思った以上に遠くまで届く。麗華の部屋まで——届いていたのだ。


 暁風は何も言えなかった。


 麗華が布包みを差し出した。手が小さく震えているのは、寒さのせいだけではないかもしれない。


「握り飯です。塩と梅干しだけですが」


 暁風は受け取った。布包みは温かかった。麗華が握った飯だ。白い布に包まれた二つの握り飯の温もりが、手のひらに伝わる。ついさっき握ったばかりだ。暁風が支度をしている間に——麗華は厨房で飯を握っていたことになる。


「これは——」


「皇帝の命でも将軍の任務でもない、とおっしゃいましたね」


 暁風が麗華を見た。月明かりの下、琥珀色の瞳が暁風を見つめている。いつもの冷静な知略家の目ではない。もっと——柔らかい光だった。夜明け前の闇の中で、その瞳だけが月を映して輝いていた。


「ああ。俺の意志だ」


 暁風の声は静かだった。迷いがない。昨夜まであった揺れが——消えている。


 麗華は頷いた。


「では——」


 声が、わずかに震えた。


「無事に、戻ってきてください」


 後宮で三年間、どんな時も声を震わせなかった女だ。皇帝の前でも、宰相の前でも、廃妃を宣告された時でさえ。


 だが今——「戻ってきてください」の一言に、感情が滲んだ。その震えは、政治でも知略でもない。一人の人間の——祈りだった。


 暁風の呼吸が止まった。


 麗華の声が震えたことに——気づいている。気づいていて、言葉にできない。この不器用な男は、感情を言葉にする術を持たない。だから——。


「……必ず戻る」


 それだけ言った。暁風に言えるのは、それだけだった。だがその四文字に、暁風の全ての感情が詰まっていた。


 握り飯を懐に入れた。心臓の近く。麗華の手が握った飯が——暁風の胸元で温かい。鱗甲の内側、鉄と革の冷たさの中で、その温もりだけが柔らかかった。


「行ってくる」


「はい」


 暁風は門を出た。手勢が後に続く。甲冑の足音が石畳に反響し、夜明け前の闇に吸い込まれていく。


 足音が遠ざかっていく。


 麗華は門前に立ったまま、暁風の背中を見送った。


 鉄紺の軍袍が闇に溶けていく。肩の雲雷紋が月光を最後に一度反射し——消えた。


 麗華は一人残された。


 手のひらを見つめた。握り飯を渡した手。暁風の手に触れた——いや、触れていない。布包みを渡しただけだ。だが布越しに暁風の手の大きさと温かさが伝わった気がして、指先がまだ熱い。


(「無事に戻ってきてください」——何を、言っているのだ。私は)


 食糧戦略家として。鳳凰領の当主として。冷静に判断し、冷静に指示を出すのが麗華の役割だ。暁風の出撃は戦略上の必然であり、感情を挟む余地はないはずだった。


 だが今——暁風が戦場に向かう背中を見て、麗華の胸にあるのは冷静な計算ではなかった。


(帰ってきて)


 言葉にならない想い。握り飯に込めた、塩と梅干しだけの素朴な想い。


 食べて、生きて、帰ってきて。


 それが——今の麗華が暁風にできる、全てだった。


     *


 暁風は外縁部の森を走っていた。


 手勢と共に、蘇家の工作員が潜伏する拠点に向かう。春蘭の情報網が特定した場所だ。鳳凰領の北東、鳳凰泉の奥にある廃屋群。獣道に近い細い山道を、甲冑の重みを物ともせず駆ける。


 走りながら、懐に手を当てた。握り飯の温もりがまだ残っている。鉄と革と汗の匂いの中に、ほんのりと米の香りが混じる。


(俺の意志だ)


 皇帝の命ではない。将軍の任務でもない。


 この場所を守る。この食を守る。——この女が守ろうとしているものを、守る。


 暁風は走った。


 冬の森を抜け、丘を越え、荒れた道を駆ける。息が白く凍り、甲冑が微かに鳴る。


 東の空が白み始めた。夜明けの光が、暁風の甲冑を鈍く照らした。樹間から差し込む朝の最初の一筋が、暗銀色の鱗甲に反射して白く光る。


 懐の握り飯が——まだ、温かかった。


(「無事に戻ってきてください」)


 麗華の声が、耳に残っている。あの声の震え。あの瞳の光。


 暁風は走りながら、奥歯を噛んだ。


(戻る。必ず戻る。——あんたの飯を、もう一度食うために)


 拠点が見えた。廃屋が五棟。周囲に柵と見張り台。工作員は推定十五名。


 暁風は手勢を止め、包囲陣形を指示した。


 そして——剣を抜いた。


 刃が朝日を反射して光る。


「行くぞ」


 暁風が駆け出した。握り飯を懐に、刃を手に。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ