握り飯と刃
暁風は夜明け前に起きた。
甲冑を身につける。鉄紺の軍袍に袖を通し、暗銀色の鱗甲を胸に当て、革紐を締める。一本ずつ、丁寧に。戦の前の支度は、いつも静かだ。肩当てを嵌め、腰に長剣を佩く。背に弓と矢筒を負う。鎧の重みが肩にかかり、体全体に圧がかかる。
将軍としての支度だ。だが今日——この甲冑は「皇帝の将軍」の鎧ではない。
一人の人間として戦う鎧だ。
暁風は鏡に映る自分を見た。禁軍の雲雷紋が肩で光っている。この紋章は皇帝への忠義の証だ。十五の時から肩に背負い続けてきた印。だが今日、この紋章が意味するものは——これまでとは違う。
(忠義は捨てない。だが——忠義の形を、俺自身で決める)
居室を出た。
廊下はまだ暗い。足音を殺して歩く。壁に映る自分の影が、甲冑の輪郭を大きく見せていた。
中庭に出ると、手勢の十名が集まっていた。全員が軽装の戦闘装備を身につけている。息を白く凍らせながら、暁風を待っていた。誰も言葉を発していない。冬の暗闇の中、鎧の金具が微かに鳴る音だけが響いている。
「将軍」
「出るぞ。蘇家の工作員の拠点を叩く」
手勢が頷いた。この半年間、暁風と共に鳳凰領を巡回し、共に汗を流してきた男たちだ。暁風の命令に——迷いはない。
「これは皇帝陛下の命令ではない」
暁風は手勢の顔を一人ずつ見た。暗闇の中でも、男たちの目は真っ直ぐに暁風を見返している。
「俺の意志だ。嫌な奴は残れ」
誰も動かなかった。冬の風が中庭を吹き抜け、旗竿の布がはためく音が聞こえた。
先頭の兵が口を開いた。
「将軍の意志が俺たちの意志です」
暁風は頷いた。それ以上の言葉は要らなかった。武人同士の信頼は、言葉ではなく行動で築かれる。半年間の巡回と汗が、今この瞬間の即答になった。
門に向かう。
門前に——麗華が立っていた。
夜明け前の暗がりの中、白い息が麗華の口元から立ちのぼっている。手に白い布包みを持っている。藍染めの交領袍に薄手の上掛けを羽織っただけの装いで、指先が冷気に赤くなっていた。
暁風は足を止めた。
「……何をしている」
「見送りです」
「まだ暗い。寒いだろう」
「将軍殿のお支度の音が聞こえましたので。甲冑を着る音は——響きますから」
鉄紺の鱗甲の革紐を締める音。肩当てを嵌める金属音。暗闘の中では、それらの音は思った以上に遠くまで届く。麗華の部屋まで——届いていたのだ。
暁風は何も言えなかった。
麗華が布包みを差し出した。手が小さく震えているのは、寒さのせいだけではないかもしれない。
「握り飯です。塩と梅干しだけですが」
暁風は受け取った。布包みは温かかった。麗華が握った飯だ。白い布に包まれた二つの握り飯の温もりが、手のひらに伝わる。ついさっき握ったばかりだ。暁風が支度をしている間に——麗華は厨房で飯を握っていたことになる。
「これは——」
「皇帝の命でも将軍の任務でもない、とおっしゃいましたね」
暁風が麗華を見た。月明かりの下、琥珀色の瞳が暁風を見つめている。いつもの冷静な知略家の目ではない。もっと——柔らかい光だった。夜明け前の闇の中で、その瞳だけが月を映して輝いていた。
「ああ。俺の意志だ」
暁風の声は静かだった。迷いがない。昨夜まであった揺れが——消えている。
麗華は頷いた。
「では——」
声が、わずかに震えた。
「無事に、戻ってきてください」
後宮で三年間、どんな時も声を震わせなかった女だ。皇帝の前でも、宰相の前でも、廃妃を宣告された時でさえ。
だが今——「戻ってきてください」の一言に、感情が滲んだ。その震えは、政治でも知略でもない。一人の人間の——祈りだった。
暁風の呼吸が止まった。
麗華の声が震えたことに——気づいている。気づいていて、言葉にできない。この不器用な男は、感情を言葉にする術を持たない。だから——。
「……必ず戻る」
それだけ言った。暁風に言えるのは、それだけだった。だがその四文字に、暁風の全ての感情が詰まっていた。
握り飯を懐に入れた。心臓の近く。麗華の手が握った飯が——暁風の胸元で温かい。鱗甲の内側、鉄と革の冷たさの中で、その温もりだけが柔らかかった。
「行ってくる」
「はい」
暁風は門を出た。手勢が後に続く。甲冑の足音が石畳に反響し、夜明け前の闇に吸い込まれていく。
足音が遠ざかっていく。
麗華は門前に立ったまま、暁風の背中を見送った。
鉄紺の軍袍が闇に溶けていく。肩の雲雷紋が月光を最後に一度反射し——消えた。
麗華は一人残された。
手のひらを見つめた。握り飯を渡した手。暁風の手に触れた——いや、触れていない。布包みを渡しただけだ。だが布越しに暁風の手の大きさと温かさが伝わった気がして、指先がまだ熱い。
(「無事に戻ってきてください」——何を、言っているのだ。私は)
食糧戦略家として。鳳凰領の当主として。冷静に判断し、冷静に指示を出すのが麗華の役割だ。暁風の出撃は戦略上の必然であり、感情を挟む余地はないはずだった。
だが今——暁風が戦場に向かう背中を見て、麗華の胸にあるのは冷静な計算ではなかった。
(帰ってきて)
言葉にならない想い。握り飯に込めた、塩と梅干しだけの素朴な想い。
食べて、生きて、帰ってきて。
それが——今の麗華が暁風にできる、全てだった。
*
暁風は外縁部の森を走っていた。
手勢と共に、蘇家の工作員が潜伏する拠点に向かう。春蘭の情報網が特定した場所だ。鳳凰領の北東、鳳凰泉の奥にある廃屋群。獣道に近い細い山道を、甲冑の重みを物ともせず駆ける。
走りながら、懐に手を当てた。握り飯の温もりがまだ残っている。鉄と革と汗の匂いの中に、ほんのりと米の香りが混じる。
(俺の意志だ)
皇帝の命ではない。将軍の任務でもない。
この場所を守る。この食を守る。——この女が守ろうとしているものを、守る。
暁風は走った。
冬の森を抜け、丘を越え、荒れた道を駆ける。息が白く凍り、甲冑が微かに鳴る。
東の空が白み始めた。夜明けの光が、暁風の甲冑を鈍く照らした。樹間から差し込む朝の最初の一筋が、暗銀色の鱗甲に反射して白く光る。
懐の握り飯が——まだ、温かかった。
(「無事に戻ってきてください」)
麗華の声が、耳に残っている。あの声の震え。あの瞳の光。
暁風は走りながら、奥歯を噛んだ。
(戻る。必ず戻る。——あんたの飯を、もう一度食うために)
拠点が見えた。廃屋が五棟。周囲に柵と見張り台。工作員は推定十五名。
暁風は手勢を止め、包囲陣形を指示した。
そして——剣を抜いた。
刃が朝日を反射して光る。
「行くぞ」
暁風が駆け出した。握り飯を懐に、刃を手に。




