枯れゆく穂
翌朝、被害は目に見える形で現れた。
「先生、大地が……泣いています」
翠微の声は掠れていた。夜通し大地に手を当てて霊脈の流れを追い続けたためだ。膝が土で汚れ、顔色は蒼白だったが、瞳の奥の緑色の光は消えていなかった。むしろ昨日よりも強く灯っている。霊脈の異変に感応し続けたことで、翠微の感知能力が研ぎ澄まされているのだ。
麗華は翠微の隣に膝をつき、農地を見渡した。
鳳凰泉から南へ流れる霊脈の筋に沿って——穀物が変色していた。
青々と茂っていた冬小麦の穂が、黄色く萎びている。一晩でこれほどの変化が起きるのは異常だった。通常、穀物が枯れるには数日から数週間かかる。それがたった一晩で——まるで生気を吸い取られたかのように。穂先は下を向き、茎は力を失って傾き、葉は縁から灰色に変わり始めている。
「範囲は?」
「北東の鳳凰泉から、南へ三筋。第二農区、第四農区、第六農区に——毒が入っています。第二農区が一番ひどいです。もう穂が……声が聞こえなくなっている場所があります」
「声が聞こえなくなっている——」
「普通の土は、かすかにでも音がするんです。霊脈の鼓動みたいな。でもあそこは——無音です。死んだみたいに静か」
三つの農区。鳳凰領の耕作面積の四分の一に相当する。
麗華は立ち上がり、変色した穂に手を伸ばした。指先で穂先を挟む。本来ならふくよかで弾力のある穂が——乾いて、軽い。色は黄金ではなく、灰色がかった黄色。死にかけている穂の色だ。触れた指先から、冷たい気が伝わってくる。霊脈の温もりが失われた土から育つ穀物は、こんなにも冷たくなるのか。
(穀物が——死んでいく)
手の中で穂が崩れた。風に乗って灰色の粉が散る。指の間から零れていく粉は、かつて命だった残骸だ。
「麗華様」
春蘭が駆けてきた。息を切らしている。普段の冷静な侍女頭が走るのは珍しい。
「第四農区の領民が集まっています。畑が——」
「行きます」
第四農区に向かうと、二十人ほどの領民が畑の前に立ち尽くしていた。声を上げる者はいない。ただ黙って、変色した畑を見つめている。その沈黙が、悲鳴よりも重かった。
老農の陳じいさんが、膝をついて穂を握りしめていた。
「何だ……何が起きた。昨日までは青かったのに。何がこの畑を——」
嘆きの声だった。農夫が畑の前で泣いている。生涯を土と共に過ごしてきた老人にとって、畑が一夜にして枯れることは——家族を失うに等しい。骨ばった手が、灰色の穂を震えながら握っている。
「陳じいさん」
麗華が老農の前に膝をついた。冬の冷たい土が、膝を通して肌に沁みる。
「必ず対処します。この畑は——まだ死んでいません」
「死んでない? この色を見てくだせえ。灰色だ。穂が灰色になった畑なんぞ、見たことがねえ。八十年この土と付き合ってきて——こんなことは初めてだ」
「ええ。普通の枯れ方ではありません。ですから——普通でない方法で治します」
麗華は立ち上がり、領民たちに向き直った。
「皆さん、聞いてください」
二十の顔が麗華を見た。不安と恐怖が滲んでいる。朝の寒気の中、白い息が人々の口から漏れ、まるで言葉にならない嘆きが形になっているようだった。
「鳳凰領の霊脈が——何者かに汚染されました。穀物の変色はその影響です」
ざわめきが広がった。
「汚染? 誰がそんな——」
「犯人の特定と排除は進めています。今、皆さんにお願いしたいのは——被害区域の穀物に手を触れないでください。汚染が移る可能性があります。健全な区域との境界を今から翠微が特定します」
麗華は領民たちの顔を一人ずつ見た。一人ずつ、目を合わせる。後宮で学んだ技だ。多くの人間を相手にする時、全体に語りかけるのではなく、一人ずつ見ることで「自分に語りかけている」と感じさせる。
「落ち着きなさい。対処法はあります」
声は穏やかだった。後宮で培った、場を制する声だ。しかし麗華の内心は穏やかとは程遠かった。
(対処法がある——と言い切った。だが本当にあるのか。霊脈の汚染を地養術で浄化した前例など、聞いたことがない。鳳家の秘伝書にも記述はない。私は——賭けを宣言したのだ)
胸の奥で不安が渦巻いている。それでも——領民の前で弱みを見せるわけにはいかない。
翠微が農地の端から端まで歩き始めた。両手を地面にかざし、霊脈の状態を「聞いて」いく。時折立ち止まり、「ここまでは毒が来ています」「ここからはまだ大丈夫です」と境界を示した。少女の声が、農地に響く。
暁風が翠微の横を歩き、示された地点に目印の杭を打っていく。武人の正確な手つきで、一定間隔に杭が並ぶ。杭を打つ鈍い音が、規則正しく鳴り続けた。
陳じいさんが変色した穂を握ったまま、立ち上がれずにいた。
「この畑で……じいさんの代から米を作ってきた。八十年だ。八十年、この土と一緒に生きてきた」
麗華は老農の背中を見つめた。
(食は命だ。畑は——命そのものだ)
食を武器にして国を詰ませてきた自分が、今、食を守れなかった。その事実が、刃のように胸に刺さった。
「陳じいさん」
麗華は再び膝をついた。老農の目を真っ直ぐに見た。皺だらけの顔が涙で濡れている。
「この畑を——必ず取り戻します。私の地養術にかけて」
老農の目が潤んだ。
「……頼みますぞ、お嬢様」
麗華は頷いた。約束した。約束は——守らなければならない。
農地を離れた麗華の傍に、暁風が並んだ。並んで歩く二人の影が、冬の弱い陽光に長く伸びている。
「顔色が悪い」
「大丈夫です」
「嘘をつくな。——翠微は境界の特定を続けている。あんたは一度、休め」
「休んでいる暇は——」
「休まなければ、浄化もできないだろう」
麗華は口をつぐんだ。暁風の言葉は、いつも簡潔で正しい。
「……少しだけ」
麗華は執務室に戻り、椅子に座った。机の上に変色した穂が一本置いてある。灰色の穂先を見つめながら、麗華は拳を握った。爪が掌に食い込む。
(蘇家——許さない。この大地を。この食を。殺させはしない)
窓の外で、翠微が農地を走り回っている。暁風が杭を打っている。春蘭が領民を誘導している。
一人ではない。だがそれでも——この先に待つ戦いの重さが、麗華の肩に圧し掛かっていた。




