網を張る
麗華は地図の上に指を滑らせた。
「網を張りましょう」
執務室の卓には、鳳凰領の地勢図が広げられている。霊脈の走る筋を朱で書き入れた特別な地図だ。朱い線が大地の血管のように領地を覆い、七つの主要露頭が赤い丸で示されている。蝋燭の灯りを受けて朱色が揺れ、まるで地中の霊脈が脈動しているかのように見えた。
春蘭が茶を注ぎながら訊いた。湯気がまっすぐに立ち昇り、執務室に緑茶の青い香りが広がる。
「網、とは」
「蘇家の工作員を泳がせます」
暁風が腕を組んだ。眉が寄り、頬の筋肉が硬くなる。武人としての本能が即座に反応したのだろう。
「泳がせる? 排除するのではなく?」
「排除すれば、蘇家は別の手を打つだけです。手の内を見せずに次を送り込んでくる。それよりも——今いる工作員の動きを追って、目的を特定する方が得策です」
麗華は地図の上に駒を並べた。七つの露頭に一つずつ。木製の駒が地図の上に整然と置かれていく様は、まるで碁盤の上に石を打つようだった。
「春蘭の情報網で工作員の行動を追います。誰がどこに行き、何を運び、誰と接触するか。同時に——暁風殿の巡回隊が物理的に包囲する」
「俺の巡回隊が外側の囲い、春蘭どのの情報網が内側の目、か」
「ええ。内と外の二重の網です。工作員は自分が泳がされていると気づかないまま、目的を見せてくれる」
春蘭が小さな皿を差し出した。落花生の飴菓子だ。琥珀色の飴が落花生を包み、表面がつやつやと光っている。鳳凰領の冬の名物で、農閑期に領民の女たちが手作りする。飴を薄く伸ばして落花生を一粒ずつ包み込み、仕上げに白胡麻を散らす。かりかりとした食感と、飴の素朴な甘さ、落花生の香ばしさが口の中で絡み合う。
「お菓子をどうぞ。頭を使う時は甘いものが必要です」
暁風が飴菓子を一つ手に取り、口に放り込んだ。武骨な指が、意外に器用に小さな飴を摘む。ぱりん、と小気味よい音がする。
「……甘い」
「将軍殿は甘いものがお好きでしたか」
「嫌いではない」
春蘭がくすりと笑った。麗華も微かに口元を緩めたが、すぐに地図に視線を戻した。
「問題は、工作員の目的です。霊脈の露頭に何をしようとしているのか。それが分からなければ、守りようがありません」
先日の巡回で暁風が発見した三ヶ所の試験穴。硫鉄鉱の加工粉末。いずれも霊脈の露頭の近くだった。地面に残された穴は浅いが正確で、霊脈の裂け目の位置を的確に捉えていた。素人の仕業ではない。
「霊脈に何かを入れるつもりだ。それは間違いない」
「ええ。ですが何を、どの程度の規模で、どのタイミングで——それを知らなければ対処のしようがありません」
麗華は地図の最大の露頭——鳳凰領の北東に位置する鳳凰泉——に指を置いた。鳳凰泉は霊脈が地表に最も大きく露出する場所で、ここから七本の枝脈が領地全体に広がっている。心臓に相当する場所だ。
「工作員がここに向かっていることは、春蘭の報告で分かっています。最大の露頭。ここが狙いでしょう」
「なら先回りして待ち伏せを——」
「いいえ」
麗華が首を横に振った。
「わざと隙を作ります」
暁風の眉が動いた。
「隙を?」
「鳳凰泉の監視を一時的に薄くする。工作員に『今がやれる』と思わせる。そうすれば——目的を隠さず、堂々と行動するはずです」
「それは——危険だ」
「危険ですが、目的が分からないまま小競り合いを続ける方がもっと危険です。一度だけ、見せてもらう。何をするつもりなのか」
暁風は沈黙した。麗華の知略は——時に暁風の武人としての本能に反する。だがこの半年で学んだ。この女の判断は、たいてい正しい。
「分かった。だが条件がある」
「何でしょう」
「鳳凰泉の近くに俺が潜む。見るだけだ。だが——万が一の時は、俺が止める」
麗華は暁風を見つめた。一瞬の間があった。真っ直ぐな墨色の瞳に、譲れないという意志が光っている。知略で全てを制御したい麗華と、最後の砦を自分の手で守りたい暁風。この二人の折り合いの付け方が、半年かけて出来上がっていた。
「……分かりました。お任せします」
春蘭が飴菓子をもう一つ差し出した。
「お二人とも、もう一つどうぞ。作戦は長くなりそうですから」
暁風が飴菓子を受け取り、麗華も一つ手に取った。かりん、と二人同時に噛む音が重なった。
春蘭が目を細めた。息が合っている——と言いたげな笑みだったが、麗華は気づかないふりをした。
(気づいていますよ、春蘭。その目。だけれど今は——作戦の話です)
窓の外で、冬の風が鳳凰領を吹き抜けていく。枯れ木の枝が窓格子の向こうで揺れ、冬空は硬い灰色をしていた。
暁風が立ち上がった。
「巡回の配置を組み直す。鳳凰泉の周囲は——隙を作りつつ、逃げ道を残さない配置にする」
「お願いします。隙は南東に一ヶ所だけ。工作員が最も入りやすい方角に。他は全て塞いでください」
「南東——確かにあそこは地形が複雑だ。岩場と灌木で死角が多い。工作員が選びそうな方角だな」
暁風が頷き、退室した。足音が廊下を遠ざかっていく。重く、規則正しい足音。将軍の足音だ。
春蘭が茶を片付けながら、麗華に問うた。
「鳳凰泉に隙を作るのは、本当に一日二日だけでよろしいのですね」
「ええ。工作員が動くのは新月の夜でしょう。闇が深い夜を選ぶはず。次の新月は二日後。あの夜を逃せば、次は一月先になる。蘇家も焦っている——二日後に動く」
「読みが外れたら?」
「外れたら——監視を戻して、やり直すだけです」
麗華は窓辺に歩み寄った。鳳凰領の農地が広がっている。冬枯れの畑は茶色に乾いているが、冬小麦の若い芽が土を覆い始めていた。春になれば青々と茂り、夏には穂を出し、秋には金色に実る。その循環を——蘇家が断とうとしている。
(この畑を。この食を。守らなければならない)
右手の人差し指が、左手首の内側を撫でた。怒りの癖だ。だが今は怒りではない。静かな決意だった。
網は張られた。あとは——獲物が動くのを待つだけだ。
(蘇家。あなたたちは何を企んでいるのか。見せてもらいますよ)
麗華は地図を丁寧に畳み、暁風と春蘭に頷いた。
「では——始めましょう」




