蘇家の影
秋が深まる中、春蘭の表情が変わった。
朝の執務室。窓から差し込む光が帳面の上に長方形の影を落とし、墨と紙の匂いが部屋に満ちていた。麗華が帳面を広げていると、春蘭が静かに入室した。いつもの穏やかさが消えている。目つきが鋭い。
「お嬢様。ご報告があります」
「何か」
「鳳凰領の外縁部で——蘇家の工作員と思われる者を、複数回にわたり目撃しました」
麗華の手が止まった。
「複数回?」
「はい。この半月の間に、三度。いずれも外縁部の異なる場所で、商人を装った一団です。私の手の者が追跡しましたが、鳳凰領の外に出ると姿を消します」
春蘭が地図を広げた。鳳凰領の外縁部に三つの印がつけられている。
麗華はその配置を見て、眉をひそめた。
(三点とも——霊脈が地表に近い場所だ)
「彼らの行動は?」
「商人にしては荷物が少ない。市場にも立ち寄らず、外縁部を歩き回っています。行動パターンは——何かを探しているように見えます」
「商売の種ではなく?」
「ありえません。あの動き方は偵察です」
春蘭の断言に、麗華は頷いた。
「暁風殿を呼んで」
暁風が執務室に入ってきた。春蘭の報告を聞き、地図上の三点を見て、腕を組んだ。
「俺のところにも——気になる報告が来ている」
「何?」
「巡回中に見かけた旅人だ。商人を名乗っていたが——荷物が軽すぎる。歩き方が訓練を受けた者のそれだった。視線の配り方も素人ではない」
「蘇家の者だと」
「断定はできんが——嫌な勘がする」
暁風は地図の三点を指で結んだ。
「この三点に共通するものは何だ」
「霊脈の露頭に近い場所です」
麗華が答えた。暁風の目が鋭くなった。
「霊脈——食糧の根幹だ。商業ルートではなく、もっと根本的な何かを探している」
「蘇家が前に鳳凰領に偵察者を送り込んだとき——あの者たちも霊脈の露頭を調べていました。政治的な権力争いではなく、霊脈そのものに関心があるのだとしたら——」
三人の間に沈黙が落ちた。
「巡回を強化する」
暁風が言った。声に迷いがない。監視役としての建前ではなく、鳳凰領を守る者としての覚悟が滲んでいた。
「外縁部を重点的に。俺の手勢に加えて、領民の若者にも協力を求める。怪しい人物を見つけたら即座に報告する体制を——」
「お願いします」
麗華は頷いた。
「春蘭。情報網の密度を上げて。帝都の蘇家の動向も追いなさい。人員の大規模な移動があれば——必ず分かるはずです」
「はい」
春蘭が地図を畳み、足早に去った。
執務室に暁風と二人きりになった。
「……嵐が来ますね」
麗華が呟いた。
暁風は窓の外を見た。鳳凰領の田畑が夕陽に照らされている。黄金色の稲穂が風に揺れ、穏やかな秋の景色が広がっている。
「来るなら——迎え撃つだけだ」
暁風の声は落ち着いていた。だがその目に、静かな覚悟が宿っている。
「将軍殿」
「何だ」
「ありがとう」
暁風が少し驚いた顔をした。
「何がだ」
「巡回を強化すると——自分から申し出てくれたこと。監視役の任務には含まれないでしょう」
暁風は目を逸らした。
「……鳳凰領が安全であることは、朝廷にとっても重要だ。食糧の生産地を守るのは——国益に適う」
「国益ですか」
「ああ。国益だ」
麗華は微かに笑った。
(国益、ね。この男が「国益」と言うとき、声が微妙に硬くなる。建前を言っている証拠だ)
嘘ではないだろう。だがそれだけでもない。この男が動く理由は——もう「皇帝の命令」でも「国益」でもなくなっている。
夕食は二人で取った。
麗華が作った醬燒豆腐——木綿豆腐を油でこんがりと焼き付け、甜麺醤と醤油で甘辛く煮込んだもの。豆腐の角が飴色に焼き色を帯び、甜麺醤の甘い香りと醤油の芳ばしさが湯気とともに立ち昇る。白菜の炒め物は、芯の部分がしゃきしゃきと歯応えを残し、葉先はしんなりと出汁を吸っている。白飯。
特別な料理ではない。日常の食事だ。
だが暁風が「旨い」と言い、麗華が「ありがとう」と返す。その言葉の行き来が——二人の間に信頼の層を重ねている。
「暁風殿」
「何だ」
「蘇家の工作員が探しているもの——もし霊脈だとしたら。鳳凰領の食糧生産を——根幹から断とうとしている可能性があります」
「ああ。俺もそう考えている」
「備えなければなりません。翠微の修行も加速させる。あの子の耳は——霊脈の異変をいち早く察知できる」
「翠微を使うのか」
「使うのではなく——頼むのです」
暁風が小さく頷いた。
「あんたは変わったな」
「何がですか」
「前は——一人で全部やろうとしていた。今は——人に頼める」
麗華は箸を止めた。
(……確かに、変わったのかもしれない)
翠微に教え、暁風に頼み、春蘭に任せる。一人で抱え込んでいた重荷を、少しずつ——分け始めている。
「将軍殿のおかげですよ」
「俺は何もしていない」
「していますよ。ここにいてくれるだけで」
暁風が飯を口に入れたまま、動きを止めた。
麗華は何食わぬ顔で白菜を箸で取った。
(——言い過ぎたかしら)
食後。暁風が部屋を出る際、振り返った。
「麗華殿」
名前で呼ばれた。珍しいことだ。暁風は普段「あんた」と呼ぶ。
「何ですか」
「嵐が来ても——俺はここにいる」
それだけ言って、暁風は去った。大きな背中が廊下の闇に溶けていく。革帯の金具が小さく鳴る音だけが、しばらく廊下に残った。
麗華は一人残った食卓で、冷めた茶を啜った。
(ここにいる——)
その言葉の重みが、胸の奥でゆっくりと沁みていった。
窓の外では、鳳凰領の外縁部に影が忍び寄っている。蘇家の工作員が探しているもの——それは鳳凰領の「霊脈」そのもの。
嵐の前の、静かな食卓だった。だがその静けさの中に——二人の間に確かな信頼が、音もなく積み重なっていた。




