暁風の手料理
厨房から、焦げた匂いがした。
それも尋常ではない焦げ方だ。木炭の匂いではなく、食材が完全に炭化した、あの取り返しのつかない種類の焦げ臭さ。
麗華が書庫から居室に戻ると、廊下に煙が漂っている。甘い香りと——明らかに失敗した料理の臭いが混ざり合った、奇妙な匂い。
「何事?」
「あっ——すまん」
厨房から暁風が出てきた。袖を捲り上げ、額に汗をかいている。手には焦げた何かが載った皿。
「……何をしているの、将軍殿」
「いや——たまには、俺が作ろうと思って」
暁風の額に汗が光り、袖口に卵の黄身がこびりついている。武人としては瑛朝随一と称される男が、厨房では完全に敗北していた。
麗華は厨房を覗いた。
壮絶な光景だった。
鍋は二つとも使われており、一つからは異様に塩辛い匂いの湯気が立ち、もう一つは底が真っ黒に焦げている。まな板の上には切り損なった青菜が散乱し、卵の殻が床に落ちていた。
「将軍殿。これは——」
「青菜の炒め物と、卵のスープを——作るつもりだった」
暁風の声が小さくなった。
麗華は皿の上の黒い物体を見た。青菜の炒め物——だったもの。炭化している。もう一つの鍋を覗くと、卵のスープは白く濁り、表面に油が浮いている。一口舐めてみると——。
「……これは海の水ですか」
「塩を入れすぎた」
「入れすぎたどころではないですね」
暁風が気まずそうに頭を掻いた。
「軍の糧食なら作れるんだが。あれは塩と干し肉を煮るだけだから」
「煮るだけと炒め物は別の技術です」
麗華はため息をつきたい気持ちを堪えた。
(この人は——本当に不器用だ)
だが、怒る気にはなれなかった。
「なぜ急に料理を?」
暁風が目を逸らした。
「……いつも食事を作ってもらっている。たまには——こっちが、何か返したいと思った」
麗華の胸に、小さな温かさが灯った。
「気持ちは嬉しいですが、厨房が戦場になっています」
「すまん」
「片付けは手伝ってくださいね」
「ああ」
二人で厨房を片付けた。焦げた鍋を洗い、床の卵の殻を拾い、まな板を綺麗にする。暁風が黙々と鍋を磨く姿は、戦場で武器の手入れをしているときの真剣さに似ていた。焦げが一つ残らず落ちるまで、力を込めて磨き続ける。その几帳面さは、武人としての性分なのだろう。
「将軍殿。焦げた炒め物は——捨てますか」
「いや。食えるなら食う」
「……食べられないことはありません。焦げを削れば」
麗華は焦げた青菜の外側を箸で剥がし、辛うじて食べられる部分を皿に移した。塩辛いスープは湯で薄めて味を調え直した。
居室の卓に、修正された料理が並んだ。
暁風作の焦げた青菜炒め(救出済み)と塩辛い卵スープ(修正済み)。それに麗華が急遽炊いた白飯。
「いただきます」
二人で箸をつけた。
麗華が青菜を一口。
「……まあ、食べられないことはありません」
「それは褒めているのか」
「事実を述べています」
暁風がスープを一口。
「……まだ塩辛いな」
「将軍殿の料理は戦場の味ですね」
「戦場に失礼だ」
麗華が笑った。声を出して笑った。
暁風も——つられて、小さく笑った。
二人の笑い声が、夜の居室に響いた。
「将軍殿」
「何だ」
「次はもう少しマシにしてくださいね。厨房を壊されたら困りますから」
「……次がある前提か」
「ないのですか?」
「——ある。次はもう少しマシにする」
暁風が宣言した。真剣な顔で。眉間に皺を寄せ、顎を引き、まるで皇帝の前で軍令を復唱するかのような面持ちだ。料理の宣言を、出陣の誓いのように言う男だ。
麗華は白飯を一口食べた。自分で炊いた飯は安定の味だが——今夜は、暁風の焦げた炒め物の方が記憶に残りそうだった。
食後、暁風が食器を洗おうとした。麗華が「洗い方は教えましたよね」と言うと、暁風は「洗い方くらい知っている」とむきになった。
二人で食器を洗った。
暁風が椀を拭き、麗華が棚にしまう。その作業の中で——一瞬、手が触れた。
二人とも何も言わなかった。
暁風が先に部屋を出た。
「……ごちそうさま」
「お粗末さまでした。次は——もう少し食べられるものを期待しています」
「善処する」
暁風の背中が廊下の闇に消えた。
麗華は食器棚の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
手のひらに——暁風の指先の温度が、微かに残っていた。
廊下の向こうから、春蘭の声がした。
「まったく——ああいうのを見せつけられると、こちらの胃もたれがひどいですわ」
麗華は聞こえないふりをした。
だが耳が——少しだけ赤くなっていた。
翌朝。
朝食の席で暁風が何食わぬ顔で座っている。昨夜のことには一言も触れない。麗華も触れなかった。
翠微が「先生、今朝の穀物すごく元気です!」と報告し、春蘭が茶を淹れ、老太爺が庭の畑に出ていった。いつもの朝だ。
だが暁風が茶を飲むとき——麗華の淹れた茶碗を、いつもより少しだけ大事に持っていた。
それに気づいたのは、春蘭だけだった。
春蘭は廊下の柱に寄りかかり、小さく微笑んだ。後宮で三年間、麗華の傍に仕えた侍女の目は誤魔化せない。
「——やれやれ。お嬢様も将軍殿も、鈍い方同士で困りますわね」
独り言を言って、春蘭は洗濯物を取りに歩いていった。
鳳凰領の朝は穏やかだ。暁風の焦げた炒め物の記憶は——この食卓を囲む者たちにとって、長く笑い話になるだろう。
そして暁風は——本当に次の料理を作った。一週間後のことだ。今度は粥だった。焦がしはしなかった。ただし、塩加減を間違えてほぼ無味だった。
「将軍殿。味がしないのですが」
「……塩を入れ忘れた」
「入れ忘れた」
「黙って食え」
麗華が笑った。声を出して、お腹を押さえて笑った。後宮では決して見せなかった笑い方だ。暁風も——また笑った。二人の笑い声が、朝の居室に温かく響いた。




