■ 第9話:便器のネットワークと、人類総「骨抜き」計画
地下の第4会議室は、御子柴が吐き出す紫煙と、絶望的な考察の熱気によって、サウナのような息苦しさに包まれていた。
無機質な換気扇が、ジジッ……とフィルターの限界を告げる音を鳴らしている。
氷室司は、額に浮かんだ脂汗を手の甲で拭い、長机の上に置かれたタブレットのキーボードを猛烈な勢いで叩き続けていた。
銀縁眼鏡の奥の瞳には、データ至上主義者としての意地と、底知れぬ焦りが入り混じっている。
「……まだです。まだ、システムを破壊する糸口はあるはずです!」
氷室の指先が、怒りを込めてエンターキーを強く叩く。
「スマートトイレが、排泄物から個人のホルモン値を読み取り、クラウドを経由して去勢電波を最適化している。それならば、その【クラウドの大元】をハッキングし、システムを強制シャットダウンさせるか、あるいは通信インフラそのものにジャミング(電波妨害)をかければ……!」
「……やめておけ、氷室。無駄だ」
腕組みをしていた轟大吾が、低く重い声で制止した。
彼の分厚い胸板を包むタクティカルジャケットが、呼吸のたびに軋む。
「軍事的な【グローバル監視網】を甘く見るな。世界中のトイレを繋ぐほどの巨大インフラだ。メインサーバーが一つなんていう、脆弱な設計になっているはずがない」
「ええ。それに、彼らが収集しているデータは、一日一回の健康診断のような生易しいものじゃないわ」
紫煙のベールを透かして、烏丸玲奈のひんやりとした声が響いた。
彼女はペットボトルの水をグラスに注ぎ、透き通るような指先でその縁をなぞる。
「氷室さん。あなたはさっき、データのトラフィック(通信量)を見ていたわよね。……その通信、本当に『一日一回』だけだったかしら?」
「……っ!」
氷室が弾かれたようにタブレットの画面に顔を近づける。
巨大モニターに映し出された世界規模の通信ログ。それは、信じられないほどの密度で、秒間数億回という異常な明滅を繰り返していた。
「通信パケットが……途切れない。常に、リアルタイムで送受信され続けている……!?」
「その通りだ!!」
御子柴健が、パイプ椅子から身を乗り出し、長机を指の関節でコンコンと叩いた。
彼はスーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、カチン、と火をつけて煙草を咥える。
「いいか氷室! 自宅のトイレだけじゃねえ! オフィス、駅、カフェ、コンビニ! 世界中に設置された何十億台というスマートトイレは、すべてがIoTで直結された【超巨大な監視メッシュネットワーク】なんだよ!!」
「すべてのトイレが……繋がっている……?」
七海悠太が、床に座り込んだまま、生唾を飲み込む。
「そうだ!!」
御子柴は立ち上がり、ホワイトボードに『男』の図を描き、その周囲を無数の『便器』でぐるりと囲み、すべての便器を線で繋いだ。
「奴らの狙いは、ただの去勢じゃない! 男たちの【リアルタイムの感情制御】だ! 例えば、お前が職場で上司に理不尽に怒鳴られ、闘争心とアドレナリンが急上昇したとする!」
御子柴が、黒のマーカーでホワイトボードを激しく叩きつける。
「その直後、お前がイライラしながら会社のトイレに入り、便座に座る! すると便器は、即座に尿の成分や着座時の心拍数から『対象の闘争心が規定値をオーバーしている』と検知するんだ!!」
「……検知したデータは、瞬時にネットワーク全体で共有される……!」
轟が、戦慄と共にその兵器の全貌を理解し、顔面を蒼白にさせた。
「そうだ!! 会社のトイレは、お前の怒りを鎮圧するために、即座に【最大出力の鎮静(去勢)マイクロ波】を照射する! そしてそのデータは、駅のトイレにも、自宅のトイレにもリアルタイムで引き継がれる!!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜く。
「お前がどこへ逃げようと、どこで用を足そうと! ネットワークは常にお前の精神状態を把握し、完全に去勢されるまで、行く先々の便座から追撃の電磁波を撃ち込んでくるんだ!! 逃げ場なんて、地球上のどこにも存在しねえ!!」
「究極の……生体管理システム(パノプティコン)……」
烏丸が、恍惚とした笑みを浮かべた。
「監視カメラも、GPSも必要ない。人間が絶対に我慢できない【排泄】という生理現象にシステムを組み込むことで、黒幕たちは人類の魂の揺れ動きすらも、24時間365日、完璧に把握できるようになったのよ」
「そんなバカな……! 個人のバイタルデータを数十億人規模でリアルタイム処理するなど、現代のコンピューターの演算能力を遥かに超えている!!」
氷室が声を荒げ、タブレットのハッキングツールを最大出力で稼働させる。
「私が見せてやりますよ! このシステムの脆弱性を……データ至上主義の力で、必ず……!!」
氷室の指が、残像が見えるほどの速度でキーボードを叩き続ける。
巨大モニターには、スマートトイレのネットワークから溢れ出す、天文学的な量のコードが滝のように流れ落ちていた。
だが。
ピーーーッ!! ピーーーッ!!
「……っ!!」
氷室の持つ最新鋭のタブレットが、突如として異様な警告音を鳴らし、異常発熱を起こした。
「氷室! どうした!!」
轟が身を乗り出す。
「デ、データ量が……! 処理しきれない……!!」
氷室の顔から、完全に血の気が引いていた。
巨大モニターに映る世界地図。そこには、ただの排泄データだけではなく、心拍、血圧、ストレス値、そして【怒りの予測値】までが、数十億人分、秒単位で絶え間なく更新され続けている。
「単なるサーバーじゃない……! 世界中のすべてのスマートトイレに搭載されたAIチップが、分散処理で全人類の体調を演算しているんだ!! 私の……私のデータ処理能力じゃ、この巨大すぎる【便器の海】には、到底追いつかない……!!」
プツンッ。
氷室のタブレットから煙が上がり、画面が完全にブラックアウトした。
巨大モニターもまた、エラー表示と共に真っ暗に染まる。
「…………負け、です。完全に、私の敗北だ」
常に論理とデータで冷静さを保ってきた氷室司が、力なく椅子に崩れ落ち、震える両手で顔を覆った。
データ至上主義者の、完全なる敗北宣言。
それは、この密室において「人類の抵抗手段が完全に絶たれた」ことを意味していた。
「ククク……当然だ。相手は、世界中のエリートが総力を挙げて作り上げた【神の檻】だぜ」
御子柴が、短くなった煙草を灰皿に押し付けながら、低く笑う。
「誰も血を流さず、誰も痛みを伴わず。ただ、清潔で快適な便座に座り続けるだけで、人類は永遠に怒りを忘れ、牙を抜かれ、管理者の思い通りに動く完璧な【働きアリ】になる。……これが、影の支配者たちが完成させた、人類総『骨抜き』計画の最終到達点だ!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の頭を抱え込み、床の上で転げ回った。
「嫌だ……! どこに行っても、何をしても、便器に俺の心が監視されてるなんて……! トイレに入るたびに、俺の感情がデータにされて、骨を抜かれていくなんて!!」
逃げ場はない。
家にも、職場にも、街中にも。
立って用を足す場所はすでに根絶やしにされ、男たちは必ず、そのネットワーク化された【去勢の処刑台】に座ることを強制される。
「どこで……俺はどこでウンコすればいいんだよおおおおおっ!!」
生理現象という、人間にとって絶対に避けられない弱点を人質に取られた恐怖。
七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない地下室の壁に叩きつけられた。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
無機質な換気扇のファンが、人類の自由な意志の終焉を告げるように、ジジッ……と冷たく、重苦しい音を立てて回り続けていた。




