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■ 第8話:狙われたY染色体と、家畜化社会(ディストピア)の完成

 地下の第4会議室は、紫煙と沈黙が混ざり合い、まるで巨大な墓標の内部のような静けさに包まれていた。

 女性たちの愛情すらも利用し、男を去勢兵器の上に座らせる完璧な自律型・監視システム。

 七海悠太は、もはや立ち上がる気力すら失い、コンクリートの床に背中を丸めてうずくまっている。

「……御子柴さん。あなたの推論が真実だとして、黒幕たちの【最終目的】は何ですか?」

 氷室司が、冷え切った声で沈黙を破った。

 彼は銀縁眼鏡を押し上げ、手元のタブレットから巨大モニターへと、新しいデータ群を投射する。

「男たちを無気力にし、社会をコントロールしやすくする。それは権力者にとって都合が良いでしょう。ですが、闘争心を奪われた社会は、外敵からの侵略や、予期せぬ危機に対する【防衛力】をも失うことになります。国や企業を運営する者にとって、それはリスクが高すぎる」

 氷室は、レーザーポインターでモニターのグラフを指し示した。

「さらに不可解なのは、このデータです。1970年代から現在に至るまで、先進国の男性における【精子数】が、約50パーセントも激減しているという世界的かつ公的な統計があります。さらに、男性を決める遺伝子である【Y染色体】そのものが、世代を経るごとに急速に退化し、短くなっている」

「精子数の減少と、Y染色体の退化……」

 轟大吾が、低く険しい声で復唱した。

「ええ。もし黒幕が『従順な労働力』を求めているだけなら、生殖能力まで奪う必要はありません。労働力を再生産できなくなれば、支配する社会そのものが崩壊してしまう。……システムとして、明らかに矛盾しています!」

 氷室のデータ至上主義的な反論。

 しかし、その言葉を聞いた瞬間、轟の分厚い両手が長机をバンッ!と激しく叩きつけた。

「矛盾してねえぞ、氷室……!!」

 歴戦の猛者である轟の顔面から、スッと血の気が引いていく。

 彼はタクティカルジャケットの襟を強く握りしめ、ガタガタと震える声で呻いた。

「軍事的な観点で考えろ……! スマートトイレに仕込まれた『J-29』チップ。あれが第一チャクラ(会陰部)を狙う超近接型のマイクロ波兵器だとしたら……。そのすぐ目の前、わずか数センチの場所には【何】がある!?」

「……っ!!」

 氷室の眼鏡の奥の瞳が、限界まで見開かれた。

「男が便座に座った時! 最も無防備に、最も重力に従って垂れ下がり、便器の中の兵器に近づく器官……!」

 轟が、怒りと恐怖で額に青筋を浮かべる。

「【精巣テストクル】だ!! 奴らは闘争本能を奪うだけじゃない! 次の世代を作り出す種そのものを、毎日少しずつ電磁波で焼き切り、遺伝子レベルで破壊しているんだ!!」

「遺伝子の……破壊……!」

 七海が、床に這いつくばったまま、ヒッ、と息を呑む。

「ええ、その通りよ」

 密室の淀んだ空気を撫でるように、烏丸玲奈の艶やかな声が響いた。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先で弄りながら、巨大モニターに映る『Y染色体』の図式をうっとりと見つめた。

「Y染色体。それは生命の基本形である女性(X染色体)に対して、闘争、破壊、そして『境界線を突破するエネルギー』を与える、極めて特殊で脆い遺伝子。……黒幕たちは、この【男性性というノイズ】そのものを、地球上から完全にデリートしようとしているのよ」

「男性性の、デリート……」

 氷室が、震える声で呟く。

「そう。一代限りの洗脳じゃないわ。彼らは何世代にもわたって男たちを便座に座らせ、Y染色体を意図的に退化させることで、人類という種そのものを【遺伝子レベルで品種改良】しようとしているのよ。……おとなしく、群れをなし、決して牙を剥かない【羊】へとね」

「ククク……ハハハハハハ!!!」

 突如、御子柴健が天を仰ぎ、会議室の壁が震えるほどの狂笑を爆発させた。

 彼は咥えていた煙草を携帯灰皿に吐き捨て、よれよれのスーツのポケットに両手を突っ込んだまま、ホワイトボードの前に立ちはだかる。

「見事だ、烏丸! 轟! これで黒幕の真の狙いが、完全に暴かれたぜ!!」

 御子柴は黒のマーカーを握りしめ、ホワイトボードに『戦争』『テロ』『暴動』と書き殴り、そのすべてを激しいバツ印で消し去った。

「氷室! お前はさっき『防衛力を失うのはリスクだ』と言ったな! 違う!! 奴らはリスクを恐れているんじゃない! 世界中のエリートや支配者層が、テクノロジーの力で最終的に行き着いた【究極の理想郷】を実現しようとしているんだよ!!」

「究極の、理想郷……?」

 氷室がタブレットを握りしめ、身を乗り出す。

「そうだ!! 誰も武器を持たず、誰も権力に逆らわず、誰も怒りを感じない世界!!」

 御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜いた。

「暴動も起きねえ! テロも起きねえ! 戦争も起きねえ!! なぜなら、それを引き起こす『オスの闘争本能ノイズ』が、便器の中で完全に遺伝子ごと焼き切られているからだ!!」

 御子柴が、ホワイトボードをドスンドスンと激しく叩きつける。

「争いのない、清潔で、平和で、完璧に管理された社会!! だがその実態は、全人類が飼い主(支配者)に絶対に逆らえない【究極の家畜化社会ディストピア】だ!! 奴らは『平和』という名の檻の中に、人類を永遠に閉じ込めようとしているんだよ!!」

「ああっ……! ああああああっ……!!」

 七海悠太が、両手で自分の頭を強く抱え込み、床の上でのたうち回った。

「俺だけじゃない……! 俺の子供も、孫も、ずっと先の世代まで……! トイレに座るたびに、どんどん牙を抜かれて、ただの『働きアリ』にされていくって言うのかよ……!!」

 誰も血を流さない。誰も殺されない。

 ただ、毎日清潔な便座に座るだけで、人類は静かに、そして確実に「人間としての尊厳」と「自由な意志」を遺伝子レベルで奪われていく。

 完璧な平和。完璧な去勢。

 それこそが、影の支配者たちが仕掛けた「骨抜き計画」の最終形態だった。

「そんなの……生きてるって言えるのかよ……!! 感情も、怒りも、全部消されたただの『部品』じゃないか!!」

 どこまでも深く、静かに進行する人類の品種改良。

 七海悠太は、自分たちの未来が、抗うことすら許されない冷酷なシステムの中に完全に組み込まれているという絶望に、魂の底からの悲鳴を上げた。

「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」

 窓のない第4会議室の空気が、凍りつくような恐怖に満たされる。

 無機質な換気扇のファンが、人類の未来を吸い尽くすように、ジジッ……と不吉な音を立てて回り続けていた。

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