■ 第7話:女性たちの善意、利用された母性の檻
地下の第4会議室は、絶望という名の重圧に押し潰されそうなほどの沈黙に支配されていた。
ジェンダーレスという美名の下に、社会から「立って用を足す場所」が物理的に根絶やしにされ、男たちは逃げ場なく【処刑台】へと追い込まれている。
無機質な換気扇が、ジジッ……とフィルターの限界を告げる音を鳴らし続けていた。
「……待ってください。まだ、社会学的な矛盾があります」
氷室司が、冷めきったブラックコーヒーの残りを飲み干し、乾いた唇を舐めた。
彼は銀縁眼鏡の奥の瞳に、データ至上主義者としての最後の抵抗の光を宿らせている。
「男たちが去勢され、闘争心や活力を失えば、労働意欲も低下し、結果的に家庭の収入や社会の生産性も落ちるはずです。女性たちだって、自分の夫や息子が『無気力な腑抜け』になることを望んではいない。……いくら黒幕が巧妙に立ち回ろうと、家族の異変に気付いた女性たちが、いずれこのシステムに疑問を抱き、反発するはずです!」
氷室の指摘は、極めて論理的だった。
男を骨抜きにすることは、共に生きる女性たちにとっても不利益をもたらす。ゆえに、このシステムはいずれ内側から破綻するはずだ、と。
「……氷室さん。あなたは本当に、人間の【感情】というデータが読めないのね」
紫煙の奥から、烏丸玲奈の哀れむような声が響いた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、長い黒髪を指先で梳きながら、巨大モニターに映る『笑顔の家族』のフリー素材写真をうっとりと見つめた。
「女性にとって、一番の恐怖は何かしら? 収入が減ること? 違うわ。……愛する夫が、外で闘争本能を剥き出しにしてトラブルに巻き込まれたり、他のメスに目移りして浮気をしたりすることよ。そして母親にとっては、息子が暴力や犯罪に手を染めること」
「……っ!」
氷室が、言葉に詰まる。
「男から『牙』が抜け落ちるということは、女性から見れば【家庭が安全になる】ということなのよ」
烏丸は、透き通るような白い指先で、自分の胸元をそっと押さえた。
「休日に家でゴロゴロして、反抗もせず、言われた通りに家事を手伝い、ただ大人しく便座に座る男。……それは社会的には『腑抜け』かもしれないけれど、家庭内においては、この上なく安全で管理しやすい【理想のパートナー】に他ならないわ」
「安全で、管理しやすい……」
轟大吾が、低く呻いた。
軍事的観点から見れば、それは「完全に武装解除された捕虜」と同義だった。
「気付いたようね」
烏丸が、ふふっ、と悲しげな笑みを浮かべる。
「黒幕たちは、女性たちの【母性(母性本能)】と【家族を守りたいという愛】を、極限まで計算し尽くして利用したのよ。男たちから闘争心を奪うことは、女性たちの深層心理にある『安全な家庭を築きたい』という純粋な願いと、恐ろしいほどに【合致】してしまったの」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、御子柴健が両手を叩き、狂気じみた高笑いを爆発させた。
彼は咥えていた煙草を携帯灰皿に乱暴に押し付け、よれよれのスーツのポケットに手をつっこみながら、ホワイトボードの前に歩み出る。
「見事だ烏丸! お前の言う通りだ!! 黒幕の連中は、最初から『女性vs男性』の対立構造なんて作っちゃいねえ!!」
御子柴は黒のマーカーで、ホワイトボードに『家』という字を大きく書き、それを太い檻のような線で囲い込んだ。
「奴らの真のターゲットは男だけじゃない! 愛する家族を守りたいと願う、女性たちの【純粋な善意】そのものをハッキングしたんだよ!!」
「善意の……ハッキング!?」
氷室が、タブレットを握りしめたまま身を乗り出す。
「そうだ!!」
御子柴が、ホワイトボードをドンッ!と激しく叩いた。
「女性たちは『トイレを汚さないで』と注意しているつもりでも、その実態は、無意識のうちに愛する男たちを【去勢兵器】の真上に座るよう、毎日毎日誘導している!! 男が少しでも立とうとすれば、女性が『マナー違反よ』と叱りつける!」
御子柴の血走った眼光が、密室の全員を射抜く。
「監視カメラも、強制収容所も必要ねえ! 奴らは【清潔】という絶対的な正義を盾にすることで、世界中の妻や母親たちを、自分たちが作った【見えない檻(家庭)の看守】に仕立て上げたんだよ!!」
「……っ!!」
轟の巨体が、戦慄で大きく震えた。
彼はタクティカルジャケットの胸ぐらを強く握りしめ、信じられないものを見るように虚空を睨む。
「看守自身が、自分が看守であることに気付いていない……。それどころか、愛情と善意の裏返しとして、囚人(男)を管理し、骨抜きにしていく……。軍事国家の洗脳プログラムすら凌駕する、究極の【自律型・相互監視システム】だと言うのか!!」
「そうだ!!」
御子柴が悪魔のように目をひん剥いて吠える。
「だから男は絶対に逆らえねえ!! 妻や母の『家族のための思いやり』という純粋な愛情を向けられたら、どんな荒くれ者でも【座る】しか選択肢がなくなるんだよ!! 奴らは、人間の最も美しく尊い『家族愛』を、人類を家畜化するための【最強の呪縛】として利用しやがったんだ!!」
「ああっ……! ああああああっ……!!」
七海悠太が、両手で自分の頭を抱え込み、パイプ椅子から転げ落ちた。
「母ちゃんは……母ちゃんは、ただ俺に『綺麗なトイレを使ってほしい』って思ってただけなのに……!」
家族のために毎日トイレ掃除をしてくれる母親。
「座ってしてね」という言葉の裏には、間違いなく家族への愛と、日々の生活を守ろうとする切実な願いがあったはずだ。
だが、その尊い「愛の言葉」こそが、見えない巨大なシステムのスイッチだった。
母親は知らず知らずのうちに、自分の息子から「男としての牙」を抜き取り、権力者に絶対に逆らわない「安全な家畜」へと改造する手伝いをさせられていたのだ。
「誰も……誰も悪くないじゃないか!! 女の人たちだって、騙されて、利用されてるだけの被害者なのに……!!」
七海が、床に這いつくばりながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして叫ぶ。
「人の『優しさ』や『愛情』まで兵器にするなんて……。そんなの、あんまりじゃないですか!! どんだけ悪趣味な連中が、こんな計画を作ったって言うんですか!!」
日常の平和と清潔さが、実は全人類を罠にかけるための壮大な毒餌だったという絶望。
愛情という鎖で縛られた男たちは、もはや便座から立ち上がることすら許されない。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない地下室の壁に叩きつけられた。
無機質な換気扇のファンが、人類から奪われた闘争心と、踏みにじられた愛情の残骸を吸い込むように、低く、重苦しく回り続けていた。




