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■ 第6話:小便器の絶滅と、ジェンダーレスという名の完全包囲網

 地下の第4会議室は、紫煙と狂気に満ちた考察の熱気によって、もはや酸素よりも絶望の濃度の方が高いのではないかと思えるほどの息苦しさに支配されていた。

 無機質な換気扇が、ジジッ……ジジッ……とフィルターの限界を訴えるような悲鳴を上げている。

 氷室司は、長机の上に置かれたタブレットの液晶画面を、マイクロファイバーの布で、親の仇のように執拗に磨き続けていた。

 そして、キュッと布をしまい込むと、曇りのない銀縁眼鏡の奥から、冷徹極まりない視線を御子柴に向けた。

「……御子柴さん。スマートトイレによるテストステロンの個別撃破。悪魔的なシステムですが、その計画には【時間的・空間的な限界】があります」

「限界だと?」

 御子柴健が、煙草を口の端に咥えたまま、片眉をピクリと動かした。

「ええ」

 氷室の細い指がタブレットのキーボードをリズミカルに叩き、巨大モニターに新たなデータ群を投射する。

「現代の男性が、自宅のトイレに座っている時間は、1日のうち平均して十数分から、長くても三十分程度です。大半の時間は、学校や職場、あるいは外出先にいる。つまり、いくら自宅の便座を罠にしようと、一日の大部分は【兵器の射程圏外】にいることになります」

 氷室は、モニターに映る『公衆トイレ』の写真をレーザーポインターで指し示した。

「外出先には、男性用の【小便器】が存在します。オフィスビル、駅、商業施設。そこで用を足す限り、男性は自動的に『立って』排泄することになる。第一チャクラを便座のマイクロ波に晒すことはありません。……もし黒幕が、全人類の男を完全に骨抜きにしようとしているなら、この巨大な『安全地帯セーフエリア』を放置しておくのは、システム設計としてあまりにも杜撰です!」

 データと論理に基づく、氷室の鋭いカウンター。

 しかし、その言葉を聞いた轟大吾の顔色は、決して明るくならなかった。

 轟は、分厚い両手で自分の顔を覆い、深く、重い溜息を吐き出した。

 タクティカルジャケットの背中が、じっとりと冷や汗で濡れている。

「……氷室。お前は最近、新しくできた商業施設や、リニューアルされたオフィスのトイレに入ったことがあるか?」

「え? はい、もちろんありますが……。それが何か?」

 氷室が怪訝な表情を浮かべる。

「軍事的な【拠点制圧作戦】の基本は、敵の退路と安全地帯を物理的に消滅させることだ。……俺も、軍の施設管理データを見ていて、薄々嫌な予感はしていたんだが……」

 轟は、自らの端末を操作し、建築業界の最新の施工データを巨大モニターに割り込ませた。

「これを見てみろ。ここ数年、全国の公共施設およびオフィスビルにおける、【小便器】の設置台数の推移グラフだ」

「……っ!!」

 モニターに映し出された折れ線グラフを見て、氷室の息が止まった。

 そこには、テストステロンの減少を示すグラフと同じような、崖から落ちるほどの【異常な急降下】が記録されていた。

「小便器の設置数が……ここ数年で、激減している……!?」

「そうだ!!」

 轟が、長机を両手でバンッ!と叩きつけた。

「コスト削減や省スペース化という名目で、男性用トイレから『小便器』が次々と撤去されている! 代わりに設置されているのは、すべて【完全個室化された洋式トイレ(スマートトイレ)】だ! 今や、街中から男が『立って用を足せる場所』が、物理的に根絶やしにされようとしているんだよ!!」

「立ってする場所が……消えている……?」

 七海悠太が、パイプ椅子に座ったまま、ガクガクと膝を震わせた。

「ええ。単なるコスト削減じゃないわ」

 密室の空気を撫でるように、烏丸玲奈のひんやりとした声が響いた。

 彼女はゆっくりと立ち上がり、黒いヒールを鳴らしてモニターの前に歩み出る。

 透き通るような白い指先で、モニターに映る『新しいトイレのマーク』をそっとなぞった。

「氷室さん。小便器が消滅している最大の理由。それはコストではなく……【ジェンダーレストイレ(オールジェンダートイレ)】の普及よ」

「ジェンダーレストイレ……性別に関係なく、誰でも使える個室トイレのことですね」

 氷室が、眼鏡のブリッジを押し上げる。

「そう。多様性を尊重し、性的マイノリティの方々も安心して使えるようにするという、極めて崇高で、美しい理念。……でも、その結果として建築設計上何が起きたか? 空間を共有する『男性用トイレ』という領域自体が解体され、すべてが【床から天井まで密閉された、スマートトイレ付きの個室】に置き換わったのよ」

「……っ!!」

 轟の巨体が、ビクンと大きく震えた。

「気付いたようね、轟さん」

 烏丸が、ふふっ、と妖しく微笑む。

「小便器が並ぶ男性用トイレは、男たちが肩を並べ、無言のうちに連帯感を確認し合う、太古の『狩猟の前の儀式』の名残だった。……でも、ジェンダーレス化という美しい大義名分によって、男たちは連帯を断ち切られ、たった一人で、あの【電磁波が充満する密室(個室)】へと強制的に押し込まれることになったのよ」

「ククク……ハハハハハ!!!」

 突如、御子柴健が天を仰ぎ、狂気と歓喜が入り混じった高笑いを爆発させた。

 彼は咥えていた煙草の灰を床に落としながら、ホワイトボードの前に飛び出し、黒のマーカーで『多様性』『SDGs』といった言葉を書き殴り、そのすべてを太い線で囲い込んだ。

「繋がったぜ!! 氷室、お前の言う『安全地帯』は、とっくの昔に【完全包囲】されてたんだよ!!」

「完全包囲……」

 氷室の顔面が、蒼白に染まる。

「そうだ!! 黒幕の連中は、家庭内では『女性の清潔さへの願い』を利用して男を便座に座らせた! そして今度は、社会全体に【多様性の尊重】という、誰も反対できない最強のポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)を武器にして、社会から『立って用を足す設備』そのものを物理的に消し去ったんだ!!」

 御子柴が、ホワイトボードをドスンドスンと激しく叩く。

「誰も差別主義者にはなりたくねえ! だから企業も行政も、競い合うようにして従来のトイレを壊し、最新式の【スマートトイレ付きの完全個室】を大量に導入した! そして、立ってする場所を奪われた男たちは、外出先でも自動的に便座に座らされ、第一チャクラを無防備に晒すことになる!!」

「ESG投資(環境・社会・ガバナンス)の評価基準……!」

 氷室が、震える声で呻いた。

 タブレットの画面には、グローバル企業がトイレの改修を行うことで、投資ファンドからの評価スコアが上昇する仕組みが映し出されている。

「ジェンダーレストイレを導入しなければ、企業は投資家から資金を引き揚げられる……。だから、世界中のオフィスビルが狂ったようなスピードでトイレを改装しているのか……! 資本主義のルールそのものを利用した、完璧なインフラの入れ替え(トロイの木馬)だ!!」

「そうだ!!」

 御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて咆哮する。

「家でも! 職場でも! 駅でも! 買い物先でも!! 男たちは逃げ場なく、必ずあの【処刑台スマートトイレ】の上に座らされる! 排泄という、絶対に我慢できない生理現象を人質に取られ、男たちは一日中、クラウドに体調データを送信しながら、牙を抜くマイクロ波を浴び続けるんだ!!」

「ああっ……! ああああああっ……!!」

 七海悠太が、両手で自分の髪を強く掻きむしりながら、絶叫した。

「俺……! バイト先のコンビニでも、大学でも……! 最近改装された綺麗な個室トイレが落ち着くからって、わざわざ小便器を通り過ぎて、便座の方に座ってた……!!」

 快適で、清潔で、誰にも邪魔されないプライベート空間。

 そう信じて疑わなかった最新の個室トイレ。

 だがそれは、男たちを社会的に孤立させ、確実に去勢電波を浴びせるために用意された、逃げ場のない【屠殺場とさつじょう】のケージに他ならなかったのだ。

「誰も悪意なんて持ってない……! 母ちゃんも、会社も、社会も……! みんな『良かれと思って』やってることが……全部、俺たち男を家畜にするための手伝いだったって言うのかよ……!!」

 善意と進歩の皮を被った、あまりにも巨大で完璧な悪意。

 七海悠太は、自分を包み込む社会そのものが、逃げ場のない巨大な罠であったという事実に、魂の底からの悲鳴を上げた。

「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」

 七海の絶叫は、紫煙に巻かれた地下室の壁に叩きつけられ、虚しく響いた。

 空気清浄機が、ジジッ……という不吉な音を立てながら、全人類を包み込む「静かなる去勢の網」の完成を祝福するように、回り続けていた。

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