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■ 第5話:排泄物のビッグデータと、完全個別最適化される「牙の切除」

 地下の第4会議室は、御子柴が絶え間なく吐き出す紫煙によって、向かいに座る人間の顔すらも霞むほどに淀んでいた。

 無機質な換気扇が、低い唸り声を上げながら空気を吸い出そうとしているが、議論の熱気は冷める気配がない。

 氷室司は、タブレットの液晶画面を険しい目つきで睨みつけたまま、手元の紙コップに残った冷たいコーヒーを一気に飲み干した。

 そして、銀縁眼鏡を細い指で押し上げ、重い口を開く。

「……御子柴さん、轟さん。百歩譲って、あの『J-29』チップが第一チャクラを狙うマイクロ波発信器だとしましょう」

 氷室の指先がタブレットを滑り、巨大モニターに複雑な電波波形のグラフがいくつも投射される。

「ですが、兵器としての【効率】が悪すぎます。人間の体質やテストステロンの分泌量には個人差がある。全人類に同じ波長の電磁波を漫然と浴びせ続けても、必ず耐性を持つ個体や、効果の薄い個体が現れるはずです。これでは、完全な去勢計画とは呼べない。……非科学的です」

「軍事的な観点から見ても、氷室の言う通りだ」

 轟大吾が、分厚い腕を組みながら深く頷いた。

 彼の巨体を包むタクティカルジャケットが、呼吸のたびにギュッと軋む。

「生物兵器や化学兵器の基本は【用量ドーズの最適化】だ。対象の体重や抵抗力に合わせて投薬量を調整しなければ、標的を完全に無力化することはできない。便座に座る不特定多数の男たちに、どうやって『適切なダメージ』を与えているんだ?」

 氷室と轟の、現実的かつ致命的な指摘。

 しかし、御子柴健はパイプ椅子に深く腰掛けたまま、無精髭の顎を撫でてニヤリと笑った。

「ククク……お前ら、あの便座の正式名称を忘れたのか?」

「正式名称……?」

 氷室が訝しげに眉をひそめる。

「最新式の便器は、ただの陶器じゃねえ。家庭のWi-Fiルーターと繋がり、スマホのアプリと連動する……【スマートトイレ】だぜ?」

「……っ!!」

 氷室の眼鏡の奥の瞳が、驚愕に見開かれた。

 彼は猛烈な勢いでタブレットのキーボードを叩き始める。

「そうだ!! 現代の家電はすべて【IoTモノのインターネット】でクラウドに常時接続されている! そして、最新の便器には……排泄物から尿酸値や糖分を測る『ヘルスケアセンサー』が標準搭載されている!!」

「気付いたようだな、氷室」

 御子柴が、スーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、カチン、と火をつける。

 オレンジ色の炎が、狂気を帯びた彼の目を妖しく照らし出した。

「奴らの狙いは、健康管理なんかじゃねえ! トイレに座った男の尿や便から、毎日欠かさず【テストステロンの代謝物】を測定し、クラウド上のメインサーバーに送信しているんだよ!!」

「排泄物の……ビッグデータ化……!」

 轟が、顔面を蒼白にしながら呻いた。

「そうだ!!」

 御子柴がパイプ椅子を蹴り倒し、ホワイトボードの前に立ちはだかる。

 黒のマーカーで『クラウド』と『便器』を線で結び、その間に激しい矢印を書き殴った。

「サーバーは送られてきたデータから、その男の現在の【闘争本能の残量】を正確に割り出す! そして、その日のその男に最も効果的なマイクロ波の【周波数】と【照射時間】を瞬時に計算し、Wi-Fiを経由して便座の『J-29』チップに直接コマンドを送り返すんだ!!」

「……その人専用の、完全な【個別最適化パーソナライズ】……!」

 氷室のタブレットを持つ手が、ガタガタと震え始めた。

「データが……完全に一致します……。深夜のトラフィック解析によると、スマートトイレから海外の謎のサーバーへ向けて、毎日数メガバイトの暗号化データが送信され、直後に何らかの『受信ログ』が残されている……!」

「ええ。まるで、お抱えの暗殺者が、ターゲットの体調に合わせて毎日少しずつ『毒のレシピ』を変えているみたいね」

 烏丸玲奈が、ペットボトルの水をグラスに注ぎながら、ふふっ、と冷たい笑みを漏らした。

 彼女は長い黒髪を指先で弄り、七海悠太の方をじっと見つめる。

「七海くん。あなたはさっき、便座に座ると『クラシックのBGMや川のせせらぎが流れてくる』と言ったわよね?」

「ひっ……! は、はい……。リラックスできる、いい音だなって……」

 七海が、肩をビクッと跳ねさせて答える。

「それも、ただの音楽じゃないわ」

 烏丸の透き通るような声が、死刑宣告のように密室に響いた。

「脳波をシータ波に誘導し、マイクロ波への警戒心を解くための【聴覚的な麻酔】よ。……そして、温水洗浄機能ウォシュレット。あれはただ洗っているだけじゃないわ」

「温水……洗浄……?」

 七海の顔から、スッと血の気が引いていく。

「温かいお湯で第一チャクラ(会陰部)の周辺を刺激し、毛穴と粘膜を完全に開かせる。……そうすることで、電磁波の吸収率を極限まで跳ね上げているのよ」

「……っ!!」

 轟が大激怒し、分厚い両手で長机をバンッ!!と叩きつけた。

「排泄物から体調をスキャンし、音楽で脳を麻痺させ、温水で急所の防御を物理的にこじ開ける!! そして、クラウドが計算した【致死量の去勢電波】を、無防備な第一チャクラにダイレクトに流し込む!!」

 歴戦の武闘派である轟の巨体が、恐怖と戦慄でガクガクと震え始めた。

「軍事兵器ですら、ここまで陰湿で完璧な殺戮システムは存在しない……! トイレという完全な密室で、人類は毎日、自らの生命データを敵に献上しながら、自分専用の【刃】で急所を切り刻まれていると言うのか!!」

「それが、影の支配者たちのやり方だ!!」

 御子柴が、黒のマーカーを床に叩きつけ、咆哮した。

「血を流す戦争はもう古い! 奴らは女性たちの『家族をバイ菌から守りたい』という純粋な愛を利用し、便座に座らせるという【マナー】で男たちを縛り上げた! そして、誰もが疑わない『清潔でハイテクな便座』を使って、全人類の男から一斉に【牙】を抜き取っているんだ!!」

 完璧すぎるシステム。

 日常の「快適さ」と「清潔さ」の中に完全に偽装された、逃げ場のない去勢の儀式。

 七海悠太は、自分の腹の底から、冷たい泥水のような絶望がせり上がってくるのを感じた。

「俺の……俺のウンコやオシッコが……俺自身を去勢するためのデータに使われてたって言うのかよ……!!」

 毎日、トイレに座るたびに、見えない機械が自分の体調をスキャンし、「今日はこのくらいの電波で骨抜きにしてやろう」と計算していたのだ。

 快適だと思っていたあの時間は、自分専用の拷問部屋での調教に過ぎなかった。

「もう……どこでウンコすればいいんだよおおおおおっ!!」

 究極のプライベート空間すらも巨大な陰謀に支配されていたという事実。

 七海悠太の魂の底からの絶叫が、窓のない地下室の壁に叩きつけられた。

「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」

 無機質な換気扇のファンが、ジジッ……と不気味なノイズを立てながら、彼らの恐怖を吸い込み続けていた。

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