■ 第4話:第一チャクラの封殺と、奪われる大地のエネルギー
無機質な換気扇の音が、這いつくばる七海悠太の荒い呼吸と混ざり合い、地下の第4会議室に重く響いていた。
快適な便座が、男の闘争心を奪う極上のハニートラップだったという絶望的な仮説。
七海は、パイプ椅子の脚にすがりつくようにして、ブツブツとうわ言を繰り返している。
「……血流の問題、という線も考えられますね」
氷室司が、冷めきったブラックコーヒーの紙コップをテーブルに置き、銀縁眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げた。
彼はタブレットを操作し、人体模型の骨格図を巨大モニターに投射する。
「座りっぱなしの姿勢は、骨盤底筋群を圧迫し、下半身の血行不良を引き起こします。テストステロンの生成には良好な血流が不可欠だ。……つまり、電磁波うんぬんという陰謀論を持ち出さずとも、『長時間座る』という物理的な姿勢そのものが、男性機能の低下を招いているという医学的な説明がつきます」
「ふん。相変わらず、薄っぺらい三次元のデータしか見えていないのね」
紫煙のベールを透かして、烏丸玲奈のひんやりとした声が密室の空気を撫でた。
彼女は黒いタートルネックの襟元を指先でなぞりながら、ゆっくりと立ち上がった。
コツ、コツ、とヒールの音を響かせ、モニターに映る人体模型の前に歩み出る。
「血流や筋肉……そんな『肉体』のレベルの話をしているんじゃないわ、氷室さん。もっと根源的で、もっと神聖な……【生命エネルギーの循環】の話をしているのよ」
「……生命エネルギー?」
氷室が、不快そうに眉をひそめる。
「ええ」
烏丸は、透き通るような白い指先で、モニターに映る人体模型の【股間のやや後方】をスッとなぞった。
「ヨガや東洋医学の世界において、人間の体にはエネルギーの出入り口であるチャクラが七つ存在するとされているわ。その中でも、すべての生命力と闘争心、そして『地に足をつけて生きる力』の源となる最も重要なポイント。……それが、会陰部に位置する【第一チャクラ(ムーラダーラ)】よ」
「会陰部……股の間の、急所のことか」
轟大吾が、タクティカルジャケットのポケットに両手を突っ込みながら、低く唸った。
「そう。第一チャクラは、大地と直接繋がり、地球のマグマのような熱いエネルギーを体内へと吸い上げる【根っこ】の役割を果たしている。……このエネルギーの供給ラインをオカルト用語で【グラウンディング(地に足をつける)】と呼ぶわ」
烏丸はふふっ、と妖艶な笑みを浮かべ、振り返ってメンバー全員を見回した。
「轟さん。人間が、いえ、オスの動物が、最も強く大地と結びつく姿勢って何かしら?」
「……両足を肩幅に開き、しっかりと大地を踏みしめ、腰を落とす姿勢だ」
歴戦の猛者である轟は、即座に答えた。
「武術における基本の構え(スタンス)だな。その姿勢を取ることで、下半身が安定し、いかなる外部からの攻撃にも反撃できる態勢が整う」
「ええ。そしてそれこそが、男性が【立って用を足す】時の姿勢そのものなのよ」
「なっ……!」
氷室が、ハッとしてモニターの人体模型を見上げた。
「毎日、トイレに行くたびに、男たちは無意識のうちに両足で大地を踏みしめ、第一チャクラを通じて地球から【闘争エネルギー】を吸い上げていたの」
烏丸の言葉が、ひんやりと七海の耳に流れ込む。
「でも、座ってしまったらどうなる? 足は地から浮き、あるいは力が抜け……そして最も重要な第一チャクラ(会陰部)は、便器というポッカリと開いた『巨大な穴』の真上に、完全に無防備な状態で晒されることになるわ」
「……っ!!」
轟の巨体が、ビクンと大きく震えた。
「軍事的な防衛の観点から見ても、最悪の姿勢だ……!」
轟は分厚い両手で長机をバンッ!と叩きつけた。
「ズボンを下ろし、急所である第一チャクラを、冷たい陶器の穴に向けて完全に開け渡す。……大地からのエネルギー供給を絶たれるどころか、自らの生命力をそのまま下水道へと垂れ流すようなものだ!!」
「気付いたようね」
烏丸が、目を細めてうっとりと囁く。
「黒幕たちは、男たちから『大地との繋がり』を物理的に切断したの。家族を愛する女性たちに『飛び散るから座って』と言わせることで、男たち自らに、その神聖な【グラウンディングの儀式】を放棄させた。……善意を利用して、男たちの『根っこ』を腐らせたのよ」
「ククク……ハハハハハ!!!」
突如、密室に地鳴りのような笑い声が響き渡った。
御子柴健だ。
彼はスーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、カチン、と火をつける。
深く吸い込んだ紫煙を天井に吐き出しながら、彼はギラギラと血走った目で立ち上がった。
「見事だ、烏丸! お前のオカルト理論と、轟の軍事視点。そして俺が先ほど暴いた【軍事用マイクロ波チップ】の存在! すべてのピースが、寸分の狂いもなく噛み合ったぜ!!」
「ピースが噛み合った……? どういうことです、御子柴さん!」
氷室がタブレットを握りしめ、身を乗り出す。
「いいか、氷室! 俺はさっき、便座の中に『テストステロン破壊電波』を出すチップが仕込まれていると言ったな! だが、なぜ奴らはわざわざ【便座】という特殊な場所に兵器を仕込む必要があったのか!?」
御子柴はホワイトボードの前に歩み寄り、黒のマーカーで『便座』と、そこに座る『人体』の図を乱暴に描き殴った。
「スマホでも、テレビでも、ベッドでもいいはずだ! 現代人はあらゆるところで電磁波を浴びている! だが、奴らがどうしても【トイレの便座】でなければならなかった理由!! それが、烏丸の言う【第一チャクラ】の存在だ!!」
「第一チャクラの……存在……」
七海が、床に座り込んだまま、生唾を飲み込む。
「そうだ!!」
御子柴が、黒のマーカーでホワイトボードの人体図の『股間』を激しく叩きつけた。
ダンッ、ダンッ、という音が、地下室の壁を震わせる。
「服を着た状態や、普通の椅子に座っている状態では、布やクッションがノイズ(防壁)になって、微弱な電磁波では第一チャクラの最深部まで到達できねえ! だから奴らは、男が【下半身の衣服をすべて脱ぎ捨て、会陰部を完全に露出する】その瞬間を狙う必要があったんだ!!」
「……っ!!」
氷室の眼鏡の奥の瞳が、驚愕に見開かれた。
「男が便座に座る姿勢! それは、大地のエネルギーラインから切り離され、生命力の出入り口である【第一チャクラ】が、便座に仕込まれたマイクロ波照射チップから【わずか数センチの至近距離】で、なんの防壁もなく完全に晒される、最悪の『無防備状態』なんだよ!!」
「至近距離からの……直接照射……!!」
轟が、怒りと恐怖で顔面を蒼白にしながら呻いた。
「敵の装甲を剥がし、最も柔らかい中枢神経に、至近距離から銃口を突きつけて引き金を引くようなものだ……! 完全に計算し尽くされた、確実な【去勢の手順】か!!」
「そうだ!!」
御子柴が悪魔のような笑みを浮かべて吠える。
「しかも、あの『J-29』チップが放つのは、単なる破壊電波じゃねえ! 第一チャクラの周波数にピッタリと合わせた、専用の【キャンセラー波長】だ!! これを無防備な会陰部に直接浴び続けることで、男たちは物理的にも霊的にも、二度と『闘争本能』を生み出せない体へと作り変えられていくんだよ!!」
圧倒的な絶望の真実が、第4会議室の空気を凍りつかせた。
「綺麗にしてほしい」という、妻や母親たちの純粋な願い。
それに答えるために、男たちは「座る」ことを選んだ。
だがその優しい気遣いこそが、黒幕が用意した最も残酷なトラップの【起動スイッチ】だったのだ。
女性たちは知らず知らずのうちに、愛する家族を「去勢兵器の処刑台」へと送り込む、洗脳システムのエージェントに仕立て上げられていた。
「母ちゃん……母ちゃんは、俺を……兵器の上に座らせてたのかよ……!!」
七海悠太は、自分の股間を両手で強く庇うように抱え込み、ガタガタと激しく震え始めた。
毎日、ホッと一息ついていたあの温かい便座。
リラックスしてスマホを眺めていた、あの数十分間。
その間ずっと、目に見えない銃口が自分の「男としての根源」に突きつけられ、音もなく命のエネルギーを焼き切っていたのだ。
「そんなの……誰も、逃げられないじゃないか……!!」
日常の何気ない風景が、取り返しのつかないコズミック・ホラーへと反転した瞬間。
七海悠太の魂を引き裂くような絶叫が、窓のない地下室の天井に叩きつけられた。
「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」
無機質な換気扇のファンが、彼らの失われていく闘争心をあざ笑うかのように、低く、冷たい音を立てて回り続けていた。




