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■ 第3話:オッカムの剃刀と、消えたテストステロン

 地下の第4会議室は、御子柴が吐き出す紫煙と、異様なまでの考察の熱気によって、サウナのような息苦しさに包まれていた。

 無機質な換気扇のファンが、単調なリズムで空気をかき回している。

 氷室司は、長机の上に置かれたタブレットを指先でトントンと叩きながら、深く、冷たい溜息を吐き出した。

 そして、曇った銀縁眼鏡を外し、マイクロファイバーの布で神経質に磨き始める。

「……轟さん。あなたが極秘ルートで入手したという、便座の基板レイアウト。確かに、通常の家電には見られない特殊なチップが組み込まれていることは認めましょう」

 氷室は眼鏡をかけ直し、冷徹な視線を武闘派の男に向けた。

「ですが、それを直ちに【電磁波による去勢兵器】と断定するのは、いささか陰謀論に毒されすぎています。……オッカムの剃刀ですよ」

「オッカムの剃刀……。ある事柄を説明するためには、必要以上に多くを仮定するべきではない、という思考の原則か」

 轟大吾が、腕を組みながら低い声で唸った。

 彼の分厚い胸板を覆う黒のタクティカルジャケットが、ギュッと軋む音を立てる。

「その通りです」

 氷室はタブレットをスワイプし、巨大モニターに数枚の特許申請書のような図面を投射した。

「最新のスマートトイレは、排泄物から尿酸値や糖を測定するヘルスケア機能を搭載し始めています。あの『J-29』チップも、便座の表面温度や着座時間を計測するための、単なる生体センサーの一部であると考えるのが、最もシンプルで論理的です」

 氷室の指先が、モニターのグラフを次々と切り替えていく。

「男性ホルモンである【テストステロン】の低下にしても同じです。現代社会における深刻な運動不足、マイクロプラスチックなどの環境ホルモン、そして日常的なストレス。それらの複合的な要因によって、世界的に数値が低下している。わざわざ『影の支配者』が便器に兵器を仕込んで男を骨抜きにするなどという、リスクとコストに見合わない巨大な陰謀を想定する必要はどこにもありません」

 絶対的なデータ至上主義者による、完璧な反論。

 しかし、その整然とした論理の壁にヒビを入れたのは、パーカー姿の青年だった。

「……あの、氷室さん」

 七海悠太が、怯えたように手を挙げた。

 彼は顔面を蒼白にしながら、パイプ椅子の上で自分の両膝を抱え込んでいる。

「俺……一年前から、一人暮らしのマンションに、その……最新式の『温水洗浄・自動開閉付きスマートトイレ』を取り付けたんです。母ちゃんに怒られたトラウマもあって、家では絶対に座ってするようにしてるんですけど……」

「それが何か?」氷室が眉をひそめる。

「……座るようになってから、なんだか、凄く【どうでもよくなってきた】んです」

「どうでもよくなった?」

「はい……」

 七海は、焦点の合わない目で虚空を見つめながら、ポツリポツリと語り始めた。

「便座が、いつもフワッと暖かくて……。座ると、クラシックのBGMとか川のせせらぎの音が流れてきて……。最初は『五分だけ』と思ってスマホをいじり始めるんですけど、気づいたら二十分、三十分って、平気で座りっぱなしになっちゃうんです」

 七海の体が、ブルッと小さく震えた。

「その空間にいると、怒りとか、焦りとか、そういうのが全部抜けていくんです。バイト先で理不尽なクレームを言われても、『まあいいか』って。友達に馬鹿にされても、言い返す気力も湧かない。……なんだか、闘うのが面倒くさくて、ただ誰かの言う通りにしてる方が楽だって……」

「……っ!!」

 轟が、目を見開いて七海を凝視した。

 歴戦の猛者である轟の額に、タラリと冷たい汗が伝う。

「七海。お前、以前はもっと……理不尽なことには『ふざけんな!』って噛み付くような、血の気の多い性格だったはずだぞ」

「俺も……そう思ってたんですけど。最近は、本当に、怒るエネルギーが湧いてこないんです……」

「七海くんのその症状、極めて典型的な【テストステロン欠乏症】の初期症状よ」

 密室の空気を縫うように、烏丸玲奈のひんやりとした声が響いた。

 彼女はペットボトルのミネラルウォーターをグラスに注ぎ、透き通るような指先でその縁をなぞる。

「テストステロンは、筋肉や骨格を作るだけじゃない。決断力、闘争心、そして『自分の縄張りを守ろうとする意志』の源泉よ。……氷室さん。あなたはオッカムの剃刀で『環境ホルモンやストレスが原因』と言ったけれど、七海くんの言葉を聞いても、まだそれが【自然現象】だと言い切れるかしら?」

「それは……プラシーボ効果か、単なる疲労の蓄積です! 個人の主観的な感想を、データと同列に語るべきではない!」

 氷室が声を荒げ、タブレットを強く握りしめた。

「なら、このデータを見てみろ、氷室」

 轟が、長机をバンッ!と叩き、自らの端末から新たなデータを巨大モニターに強制的に割り込ませた。

「これは、WHOの統計をベースに、軍の医療部門が極秘で作成した【世界テストステロン減少ヒートマップ】だ!」

 モニターに映し出された世界地図。

 北米、ヨーロッパ、そして日本などの先進国の都市部が、真っ赤に染まっている。

「いいか氷室。もし環境ホルモンやストレスが原因なら、グラフは数十年かけてなだらかに下降するはずだ。だが、このデータを見てみろ!」

 轟の太い指が、モニターのグラフの『ある一点』を指し示した。

「2020年代前半! 特定の地域で、成人男性のテストステロン値が【崖から落ちるように】急激に暴落クラッシュしている! こんな不自然な急降下は、環境の変化などでは絶対に説明がつかない!」

「なっ……! これほどの急激な低下が……!?」

 氷室の眼鏡の奥の瞳が、驚愕に見開かれた。

「そして、このテストステロン暴落の発生時期と、完全にリンクしているデータがある」

 不意に、密室に低い笑い声が響いた。

 御子柴健だ。

 彼はスーツの内ポケットからジッポライターを取り出し、カチン、と小気味よい音を立てて火をつけた。

 オレンジ色の炎が、無精髭に覆われた彼の不敵な笑みを照らし出す。

「氷室、さっきお前が出荷記録をハッキングしただろ。スマートトイレの【普及率の伸び】と、そのヒートマップを重ねてみろ」

「……!!」

 氷室が震える手でタブレットを操作し、二つのデータをオーバーレイ(透過合成)させた。

 真っ赤に染まったテストステロン低下の分布図と。

 最新式スマートトイレの出荷・設置エリアの分布図が。

 モニター上で、狂気的なまでの精度で【完全一致】した。

「ば、バカな……。相関係数……0.98……。誤差の範囲すら超えている……!」

 氷室の唇から、血の気が引いていく。

 データ至上主義者の彼にとって、それは「偶然」という言葉が絶対に通用しない、殺戮の証明だった。

「ククク……オッカムの剃刀だって? 剃刀で切り裂かれたのは、お前の薄っぺらい常識の方だったな」

 御子柴が、深く吸い込んだ紫煙を天井に向かって吐き出した。

「いいか! 奴らはただ電磁波を当てているだけじゃない! 七海が言った『暖かくて快適な便座』! あれこそが、男たちを長時間座らせるための【極上のハニートラップ】なんだよ!!」

 御子柴はパイプ椅子を蹴り倒し、ホワイトボードの前に立ちはだかった。

「冷たい便座なら、男は用を足してすぐに立ち上がる! だが、奴らは便座を人肌に温め、リラックスさせる音楽を流し、男たち自らが【進んで長時間座り続ける】ようにシステムを設計したんだ!!」

「快適な空間で……自ら進んで、毒牙にかかりに行っていると言うのか……!」

 轟が、怒りと恐怖で全身の筋肉を硬直させた。

「そうだ!! 密室の中で、ズボンを下ろし、最も無防備な急所を曝け出した状態で、男たちは毎日数十分間、脳を溶かすような快適さの中で【テストステロン破壊電波】を浴び続けている!!」

 御子柴が、黒のマーカーでホワイトボードを激しく叩きつける。

 ダンッ、ダンッ、という乾いた音が、七海の心臓を直接叩くように響いた。

「暴力も、戦争も必要ねえ!! 『綺麗にして』という家族の愛情と、『快適なトイレ』という利便性を餌にして、全世界の男から【闘争心】という牙を物理的にへし折っているんだ!! これが、権力者どもが仕掛けた、人類史上最も静かで、最も悪辣な【人類総・骨抜き計画】の全貌だ!!」

「ああっ……! ああああっ……!!」

 七海悠太は、自分の頭を抱え込み、床に転げ落ちた。

 リラックスできると思っていた、自分だけの個室。

 癒やしの時間だと思っていた、便座の上でのスマホいじり。

 そのすべてが、自分の「男としての本能」をドロドロに溶かし、権力者に逆らえない従順な奴隷へと作り変えるための、完璧に計算された【去勢の儀式】だったのだ。

「俺は……俺は毎日、自分からあの上に座って、喜んで骨を抜かれてたって言うのかよ……!!」

 絶望の淵に立たされた青年の悲鳴が、窓のない地下室の壁に虚しく反響した。

「【な、何だって言うんだァァァーーーッ!?】」

 換気扇の低く単調なファンモーターの音が、まるで彼らの残された闘争心を吸い尽くすように、無機質に鳴り続けていた。

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